前回、決して議論に負けない議論術“帰謬法”についてお話しした。 そのポイントは、あけすけに言ってしまえば、「それもたしかじゃない」「それも絶対とは言えない」と、相手を否定しつづけることにある。 僕たちは、言葉の上ではどんな命題だって否定することができる。帰謬法の使い手たちは、その否定論法を、長い歴史を通して鍛え上げてきたのだ。 でも、これまで繰り返し述べてきたように、哲学とは本来、“共通了解”を見出し合うための思考の方法だ。だから、もしもそれが否定のための否定論法だったなら、そんなもの、僕に言わせれば哲学の名に値しない。 実を言うと、哲学の歴史は、ある意味ではこの帰謬論との戦いの歴史だったとも言える。哲学史には、要所要所で強力な帰謬論者たちが現れている。でも僕の見るところ、彼らはそのたびに、次の時代のすぐれた哲学者たちによって、その論理を封じられてきたのだ。 そこで今回は、一見「
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く