『英語教育』(大修館書店)11月号の英語教育時評に「エビデンスへの過剰な期待、過剰な敵視」というコラムを寄稿しました。1ヶ月が経過したので下書きを転載します。 なお、読者の便宜を考えて、キーワードのいくつかにリンクを挿入しています。 エビデンスへの過剰な期待、過剰な敵視『英語教育』2017年11月号 寺沢拓敬 英語教育界でもエビデンスという言葉がじわじわ浸透しつつあるようだ。今夏に参加したいくつもの学会でこの言葉が飛び交うのを聞いた。私自身、以前からエビデンスの重要性を主張しており、喜ばしい動向ではある。一方で、必ずしも正確に理解されていないのではないかと不安な面もある。今回は、エビデンスをめぐる誤解について論じてみたい。 専門用語の「エビデンス」この言葉は、元々、エビデンスベースト医療(通称EBM)で使われ始めたことを知っている人は多いだろう。ただ、その独得の意味に注意が必要だ。日常語の
中世・ルネサンス音楽研究の第一人者で立教大学名誉教授の皆川達夫さん(90)が11日、「かくれキリシタンの祈りの歌」と題した公開講演会(主催:立教大学キリスト教学会、文学部キリスト教学科、キリスト教学研究科)に登壇。キリスト教と音楽、そして隠れキリシタンに歌い継がれてきた「オラショ」について、集まった140人余りの聴講者を前に講演した。 「キリスト教と音楽のつながりは深い。教会には常に音楽があり、また音楽の歴史を語るとき、キリスト教は切っても切れない存在だ」と皆川さんは言う。「例えば、バッハやシューベルト、モーツァルトも優れた宗教音楽を残している。それはなぜか」。そう問い掛け、キリスト教会において音楽が重視されてきた背景をひもといた。 多くの宗教は、見えない神を何とか視覚的に捉えようと、仏像や仏画などを作る。また、海や山、木などに神が宿っているとして、それを拝むことによって神の存在を確かめる
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