サクサク読めて、アプリ限定の機能も多数!
トップへ戻る
掃除・片付け
seto-konatsu.hatenablog.com
書店である本を見つけた。興味はあるけれどどうしようかな、とページをパラパラとめくっていたら「岡本太郎」という文字が目に入り、買ってみようと思った。オードリー若林さんの「社会人大学 人見知り学部 卒業見込(完全版)」という本だ。失礼ながら内容はそこまで期待していなかったのだが、個人的にはとても良い本だった。 普通の人なら深く考えることもなく、疑問にも思わずにやれてしまうことが、どうしてもできない。納得できず「これっておかしくないだろうか」と思ってしまう。「世の中の当たり前」に対する疑問や違和感が拭えない。ネガティブで自意識過剰で考え過ぎる。そんな彼の性格や、正直な胸の内に共感することが多かった。 彼は芸人として売れるまでの間、企業に勤めることなく、下積み期間という長いモラトリアムを過ごした。そのため「真っ当な社会人」とはずいぶん感覚がずれてしまったと語っている。彼が自分も「社会に参加している
今年大ブレイクしたANZEN漫才のみやぞん。その人気は彼の人柄によるところも大きいだろう。いつも明るく笑顔で前向き、素朴で天然。多くの人が惹きつけられるのも当然かもしれない。そんな彼が、先日テレビでこんなことを言っていた。 「今、今、今。今を楽しく、今を楽しく。3秒後も未来なら、今を楽しくしてたらすぐ3秒来るから、未来は明るい。そういったようなポテンシャルでやらせてもらってます(?)」 みやぞんらしくてユニークだと感じる一方で、このような考え方を根底に据えていることを素直にすごいと思った。「今・ここ」の重要性や「今を生きる」大切さは、これまで数多くの人が言っていることだが、やっぱりそうなのだと再認識もさせられた。 私も「今を生きる」ことが大切だという思いを日々強くしている。存在しているのは常に「今」であり、人生は「今」の連続でしかないのだ。けれど、一体どうすれば「今」を生きられるのか。大事
以前よく通っていた道に空き地(?)があったのだが、久しぶりに行ってみるとコインパーキングになっていた。最近は有料駐車場が本当に多い。中には「こんなところにも!」と思うほど狭いスペースが、コインパーキングに変身していたりする。確かに便利であるし、今の社会では当然の成り行きなのかもしれない。けれど窮屈さ、息苦しさを感じて、少しうんざりしてしまうのも事実だ。 そんなコインパーキングを見ながら、「空間・遊び・余裕」はやはり大切なのではないかと思った。 例えば、家の中。かつては我が家の押し入れには結構な量のモノが詰まっていた。私がする片付けと言えば、中のモノを出しては綺麗に整頓してまた収納するというもので、捨てる選択肢が無かったのだ。今は断捨離をして、押し入れにも余裕が生まれた。空間があると見た目にも綺麗で、見ている自分の心にもゆとりが生まれる感じがする。 ついつい空いている場所があるともったいない
最近は自由に本を読めるようになった。私の場合、仕事をしていた時は読書をする時間も気力もほとんど残っていなかった。読みたい本があっても、時間的・精神的余裕が自分には無かったのだ。まして「家でゆっくりと読みたい派」なので、いつでもどこでも本を読むという器用なこともあまり出来なかった。 考えてみると、学生時代は読書の楽しさがよく分かっていなかった。幼い頃に背伸びして読んだ本が、難しいだけで面白いと感じられなかった、という記憶も影響していたのかもしれない。娯楽ではなく「勉強」だと思ってしまった。ためになると考えて無理して読んでいたことさえあった。今思えば、これは大きな勘違いだったと思う。 学校では一時「読書の時間」が設けられ、毎日10分程度、本を読む時間があった。終わりに今日は何ページ進んだかを記録するのだ。だが、あの時間も私にとっては楽しいものではなく、どちらかと言えば苦痛だった。本の選び方に問
友人は、入社した先がいわゆるブラック企業だった。毎日夜遅くまで残業をするが、残業代がきちんと支払われることはなかった。有給休暇を取るなんて夢のまた夢。それどころか休日を含め、ほぼ毎日働き通しだった。彼女はその後転職し、今はそこそこ楽しくやっているらしいが、このようなブラック企業は言語道断だろう。 しかし、最近はブラック企業ではないけれど働くことが辛かったり、何らかの違和感を覚える人が増えているという印象を受ける。私も含め、周りの友人知人にも結構いるのだ。 残業が多すぎて毎日夜中近くにしか帰れないわけではない。定時とまではいかないが、許容範囲内に帰宅することはできる。残業をすれば働いた分がしっかり支払われる(当然のことだけれど)。週休二日制で、事前に相談すれば有給休暇が取れないこともない。福利厚生もそこそこ充実しているし、給与も悪くはない。 「良い条件じゃないか」「羨ましい」「そんな環境で働
少し(?)前に、ようやく会社を辞めた。思えばこのブログを始めたのは、会社や現在の日本の働き方に対して強烈な違和感を覚えたことがきっかけだった。その後私は人生と向き合うこととなり、自分の生き方を改めて考えた。結果、辞めるに至ったのだ。この先どうなるかはわからないけれど、ひとまず会社を辞める意思を貫けたことは良かったと思っている。 会社を辞めて、平日の昼間に外出することが増えた。けれど外で見かけるのは、ご高齢のおじいさんやおばあさん、小さい子供を連れた主婦らしき方がほとんどだ。当然と言えば当然なのだけれど、同年代の人を見つけようとしてもなかなか難しい。たまに見かけたとしても、営業で外回りをしているらしいスーツ姿の人が多い。 何だか自分だけが浮いているような、場違いな所に来てしまったのではないかという感覚がする。周囲の人はもちろん何も言わないけれど、勝手に視線を気にしてしまう。好奇の目で見られて
空を眺める。雲が刻一刻とかたちを変えて流れてゆく。それを見ながら「全ては流れていくし、変わっていくのだな」と改めて思う。時に変化に絶望したり、変わることに抵抗して執着したりしてしまう。けれど固定したもの、不変なものなんて無い。生きている限り変わっていくのは当然のことなのだ。変わらないものがあるとしたら、それは死んだものだけかもしれない。 雨が降ったり、曇ったり、晴れたり。暑い日もあれば、寒い日もある。風が吹く日があれば、雪が降ったり、雷鳴が轟く日もある。私たちの毎日だって、人生だって同じではないか。楽しい日もあれば、悲しみに暮れる日もある。人間の心も同じだ。心躍るような幸せな気分になるときもあれば、辛くて仕方ないこともある。その中間だってある。 路地裏に咲いている綺麗な花を見つける。誰かに見られるとか、認められるとか、そんな事とは関係なくパッと開いている花を見て、人からの評価、他人の視線、
以前は食べるのが面倒くさいと思うことがあった。食べたい気持ち自体があまり無く、食欲が湧くことも少なかったのだ。お腹が空いたからというよりも、単に時間になったから食べているだけ、なんてこともあった。食べるものにも特にこだわりが無く、スーパーで買ったお惣菜でも満足していた。職場ではお昼休みにコンビニのお弁当やパンを食べることもしばしばあった。 ところが、最近は自分で作って食べたいという気持ちが非常に強くなり、少しずつ料理を始めるようになった(遅いのは重々承知しているが…)。料理と言っても別に凝ったものではなく、カレーやシチュー、チャーハン、パスタなど簡単なものだ。「何を食べるか」に関しても今まで以上に意識するようになった。安いから、家にあるからという理由だけではなく、自分が今欲しているものを心に聴く。そのことをとても大事にするようになったのだ。 食べることは生きることとよく言われる。けれど食へ
自分の中に湧いてくる怒りや憎しみ、恨みなどの感情。卑怯なところやずるいところ、弱い部分にダメな部分。最近は自分のそんな部分ばかりが目についてしまい、自己嫌悪に陥ることが多かった。でもそれらを含めて私なのであり、そういう部分があってこそ人間なのだ。先日も書いた遠藤周作氏の「ほんとうの私を求めて」という本で、そのことを改めて教えられた。 頭では理解しているつもりでも(ということは本当にはわかっていないのだろう)、考えるうちに、自分だけがおかしいのではないかと不安になるときがある。こんな感情を抱いてしまうなんて、とか、自分は悪い人間なのではないか、と自分を責めたり悩んだり。けれどそれが当たり前なのだ、人間みんなそうなのだと考えると少し心が軽くなる。 私はどうしてもその種の感情を良くないもの、悪いものだと思ってしまうところがあった。だが、遠藤周作氏はそれ自体は悪いものではないと言う。むしろ悪いこと
みなさん「生活」と「人生」をどのように考えているだろうか。私は「生活」とは普段の日常生活であり、「人生」とはその「生活」が集まったものだという認識を持っていた。 「人生」という言葉にはどこか仰々しい響きがあるが、細かく見れば、それは日々の暮らしの集積だ。一見平凡に見える日々が人生を作っていく。自分が一日一日をどのように生きたか、その「生活」が積み重なり、その人の「人生」となっていくものだと認識していた。ところが、遠藤周作氏の「ほんとうの私を求めて」という本を読み、とても面白い考え方に出会った。彼は「生活」と「人生」とを明確に区別しているのだ。 彼は30代後半と50代半ばに、大きな病気をしている。一度目の病気の際には、それを素直に受け入れることはできなかったという。自分に降りかかった不幸を嘆き、日々悔しさを感じては途方に暮れていた。だが後になって、彼は病気になってよかったと考えるようになった
私は以前うつ病を患っていたのだが、その回復期のこと。長い間寝たきりの状態だったのだが、その頃になると徐々に起きていられる時間が増えてきた。ほんの少しなら活動できるようになり、意欲らしきものも微かに出てきたときだったと思う。 その時に強烈なストレスを感じるようになった。外出していないことと家族以外とは話せないことが、大きな要因だった。ずっと家に籠っていると、やはりストレスが溜まってくる。看病に徹しサポートし続けてくれる家族は本当にありがたかった。しかし家族以外の人と話せないことは、フラストレーションにもなっていたのだ。 友人と会って話が出来たらいいな、遊べたらいいなと思う。けれど、その時の私には外出すること自体、体力的にも精神的にもまだまだ難しい状況だった。ましてや誰かと会って話したり遊んだりなんて、とてもできる状態ではない。それに病気を患ってから友人とは連絡を取っておらず疎遠になっていたし
先日の記事でも触れた、岡本太郎氏の著書「自分の中に毒を持て」。今回も、その著書から学んだ「ほんとうの自分を生きるヒント」について書いてみたい。 www.seto-konatsu.com 岡本太郎氏は「人間は、常に二つの道の分岐点に立たされている」と言う。その二つの道とは「安全な道」と「危険な道」だ。私たちは普段の生活でも、朝起きてから寝るまで、この分岐点に立って実に様々な選択をしている。そしてこの分かれ道はもちろん、人生における選択の際にも、私たちの目の前に存在する。 ここで言う「安全な道」とは常識通りの道であり、自分の身の安全や世間体も保証されるような道だ。一方で「危険な道」とは、生活の保障もなく不安定で、世間の常識からは外れた道。そちらに行ったら一体どうなってしまうだろうと不安になる。けれど、実は情熱を覚え、心の底では「行きたい」と願う道だ。 多くの人は「危険な道」に心惹かれながらも(
最近、些細なことでイライラしてしまうことが多い。自分が嫌な気持ちになるだけだし、そんなにムキになって怒らなくてもいいのに、それよりももっと良いことに目を向けて楽しく過ごそう、と思うのだが、どうしてもイライラしてしまうのだ。その度にまた自分を責め、自己嫌悪に陥る。もっと心穏やかでいたいのに、日常生活の様々な場面でイライラとしてしまうことがよくある。 例えば、電車やバス内で大声で話している人、イヤホンからの音漏れがうるさい人、歩きたばこをしている人、話を聞かない人、やる気がなく不愛想な店員さんなどなど…。生きることがどうの人生がどうのと考えている私だが、普段の生活でルール違反やマナー違反、非常識な行動を見つけては、いちいち腹を立てている自分が本当に小さく情けない。 以前本で読んだのだが、「他人の行動にイライラしてしまう理由は、その人が自分の欲望を体現しているから」というような文章があった。つま
世間のブームからはだいぶ遅れて、私は今年に入ってから断捨離と出会った。言葉は以前から知っていたのだけれど、「単にモノを捨てるだけ」というイメージがあったのだ。ところが実際に本を読んでみると、単なるモノ減らしではない。「これは自分自身を生きることに繋がる哲学だ」と感銘を受け、実践するようになった。 断捨離をしていく中で、今度はミニマリストなる存在を知った。みなさんご存知かと思うが、ミニマリストとは 持ち物をできるだけ減らし、必要最小限の物だけで暮らす人。自分にとって本当に必要な物だけを持つことでかえって豊かに生きられるという考え方で、大量生産・大量消費の現代社会において、新しく生まれたライフスタイルである。 引用元:コトバンク 最近は特にこのようなミニマリストの方を多く見かける気がする。テレビや雑誌で特集があったり、ブログでもその人気がうかがえる。しか
太陽の塔や「芸術は爆発だ」という名言でも知られる岡本太郎氏。彼の著書「自分の中に毒を持て」を読んだ。タイトルは知っていたのだが今まで読んだことはなかった。書店で偶然見つけて何だか惹かれるものがあり、購入したのだ。 読みながら、私はビックリしてしまった。とんでもなく感銘を受け、彼の生き方や生きる姿勢に少なからずショックも受けた。こんなにも自分の生きる筋を貫いて、瞬間瞬間をほんとうに生きた人がいたのか。目を開かれる思いがし、自分にも力がみなぎってくるように感じた。 実はこの本、最初に出版されてからもう30年近く経っている。しかし少しも色あせないどころか、今の私たちに驚くほど突き刺さる内容だと思う。かえって重要性が増していると言っても良いかもしれない。この本について語りたいことは多くあるのだけれど、まずは「いのち」や「生きることそのもの」について書いてみたいと思う。 私は病気を経験したこと、それ
私がうつ病から徐々に回復してくると、精神面と身体面で様々な変化が現れた(今まではっきりとは書いていなかったけれど、うつ病だったのだ)。中でも驚いたのは、自然があまりにも美しく感じられるようになったことだった。 青く晴れ渡った空のなんと綺麗なこと、木々の葉の緑の美しいこと。樹木の葉っぱは太陽をその縁に光らせて輝き、生命力に溢れていた。葉1枚1枚の輪郭がくっきりとしていて、まるでメガネかコンタクトの度がガチッと合ったようにクリアに見えた。 私は窓から景色を眺め、空や植物を見てはその感動をしきりに訴えていた。私があまりにも「綺麗だ、綺麗だ」と騒ぐものだから、周りもびっくりしていたようだ。でも本当に「なんじゃこりゃ」と目を丸くしてしまうほど美しかったのだ。 私は、それまで自分が見ていた景色がどんなものであったか、あまり思い出せない。けれど少なくともこんな風に感じたり、感動したことなどまるで無かった
先日デパートで下りエスカレーターに乗ると、前には小さな赤ちゃんを抱いたお母さんが立っていた。赤ちゃんは抱っこされているので、後ろにいた私とは自然と向き合う形になる。気が付くと、その赤ちゃんはこちらをじーっと見つめている。 私はニコッとしてみたのだけれど、ビックリしたのか恥ずかしかったのか、それともお気に召さなかったのか、少し向こうを向いてしまった。でもすぐに再び、その真ん丸な瞳で私の目をじっと見つめ始めた。 その瞳に見つめられて、私は何だか自分が丸裸にされているような気持ちになってしまった。「あぁ、この子の前ではどんなに表面的に取り繕っても、外見を着飾ったとしても意味はないんだな」とわかった。きっと彼らはすべてお見通しだと感じたのだ。 曇りのない清らかな瞳には、だからこそまっすぐ本質に迫ってくるような強さがあった。言葉や装飾などものともせず、私の中心まで一直線にたどり着いてくるようなまっす
「今でしょ!」でお馴染みの林修先生が、以前テレビで「どうしたら幸せになれるか」というお話をされていた。ご覧になった方もいるかもしれない。 林先生はまず下の図のように「やりたい・やりたくない」を横軸に、「できる・できない」を縦軸にとり、マトリックスを作るという。では、以下のどの分野を取り組めば、より幸せに生きていけるだろうか、と問いかける。 ③の領域は当然避けるべき。理想的なのは①だが、自分がやりたくて尚且つできる(才能がある、得意である)なんてことは極めて稀である。そこで残るは②と④だが、多くの人はどうしているか。やりたいけど出来ないこと、という④の中で必死にもがいて上手くいっていないのではないか。だったら②の「やりたくないけど、何故か簡単にできてしまうこと」に目を向ければ良いのではないか。自分が当たり前に思っている才能を生かして仕事をした方が上手くいき、幸せにもなれる。ざっくり言うとそん
最近は自分がどう生きたいのか、どうありたいのかについて日々悩んだり、考えたり。はたまた何も考えず気ままに過ごしてみたり。そんな状態だから、決して多くはないけれど、必然的に読書量も増えている。もちろんお勉強としてではなく、自然に読みたいから読んでいる。もっと多くの考え方や価値観に触れたい、知りたいと思って読んでいる。 私は今初めて「生きる」ことと向かい合っているような気がする。時期としては本当に遅いと思う。恥ずかしいというか、情けないような気もする。でも一方で、遅すぎるなんてことはないんだ、と自分を鼓舞してもいる。 これまでの人生、決してスムーズにここまで来られたわけではない。困難や苦労は本当に多かった。けれど、それと「生きることと向き合ってきたかどうか」はまた別の問題だった。 今まで実にいろいろなことがあった。でも振り返ってみて、例えば苦しかった時にも、私は「生きる」ことに対して真摯に向き
先日の記事にも書いた村上春樹さんの「アンダーグラウンド」(地下鉄サリン事件の被害者62名へのインタビュー集)について。 おそらくテレビや新聞の報道だと「被害者(関係者)」と一括りにされてしまい、個人としての実態が浮かび上がってこないところがあると思う。でもこの本を読むと、一人一人が個人としてくっきりと浮かび上がってくる。偶然にもあのサリン列車に乗り合わせた人々、被害にあわれた方々、個人個人がその瞬間に何を感じ、何を思い、どんな行動をとっていたのか。その人はどんな人生の物語を持ち、その日を生きていたのか。 当然なのだけれど、「一人一人に様々な背景やストーリーがあって、それぞれが深く濃い人生の物語を持っている。」ということを改めて強く意識させられた本でもあった。 私は自分の先祖に思いを馳せた。祖父母の父母、そのまた父母…と考えるだけでも果てしないが、その一人一人の人生に、数々の喜びや幸せ、悲し
村上春樹さんの「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」を読んだ。前者は、1995年に起きた地下鉄サリン事件の真相に迫るべく、被害者(関係者)62人に対して村上さん自身が行ったインタビューをまとめたもの。後者は、オウム真理教信者(元信者)へのインタビューを中心にまとめたもので、どちらもノンフィクションだ。 現在、社会に違和感を持ちながら様々に悩んでいる私にとって、この2冊から得るものは大きかった。「現実」を生きるということについて改めて考えさせられたのだ。 村上さんが分析されるように、オウム真理教=異常=悪=あちら側と、私たち一般市民=正常=善=こちら側、という風に明確に二つの世界に分かれているわけではないと私も感じる。当事者ではないからそう言えるのかもしれないけれど。でも彼らだけがおかしくて、こちらとは関係ない理解不能なものとして別れて存在しているわけでは無いように思える。村上さんが言
学生時代を通して、私は徐々に優等生的な気質を備えていった。そんなとき新しいクラスで、ある女の子と出会った。テストの点数や成績の良さなどの表面的な部分を見れば、私と彼女はとてもよく似ていたと思う。しかしある時、彼女が勉強に取り組む姿を見て、「あ、この人には勝てないな」と直感的に思ったことをよく覚えている。 負けず嫌いであるはずの私がそんな風に思ったことに、自分でも驚いた。それは「才能」や「努力」の差といったものではない。そうでないことはわかったのだが、その時は自分がなぜそう感じたのか、はっきりとはわからなかった。 そのことに関してはそれ以降、なるべく考えないようにした。何かに気付いたけれど、気付かないふりをしていたのかもしれない。考えてしまったら、今やっていることや自分の歩みが止まってしまう気がしたからだ。 今はそれが何であったのか、わかるような気がする。 私に、学ぶことが好きな面があったの
一時期はポジティブ思考やプラス思考を頑張ってみたり、口に出す言葉を意識してみたりした。それはそれで大事なことだとは思う。けれど、どんなに前向きを装っても、なかなか上手くいかない。 今思えば、これらはやはり表面的な取り繕いにすぎなかったのだろう。根本的な問題は変わらずに残り続けていたのではないか。つまり、プラスに考えて良い言葉を発していても、私は心の底では低いセルフイメージを持ち続けていたのだ。私は自己肯定感が低く、自己愛が枯渇しているらしい自分に気が付いた。 きっかけはやはり学生時代だろうと思う。私には学校に行くことができなかった時期がある。様々な理由が複雑に絡んでいるのだが、そのときの怒りや悔しさ、憎しみ、恨み、といった感情はいつまで経っても成仏してくれない。 といっても、いつも怒り憎んでいるわけではない。普段はそんなこと忘れているし考えもしないのだが、あるときに、本当に稀なのだけれど、
洗脳なんて、どこか他人事のように思っていた。けれど、これまで学校で受けてきた教育は考えてみれば洗脳そのものだった。 子供の頃、親や先生の言うことは私にとって絶対的なものだった。中には「こんなことは馬鹿馬鹿しい」とか大人たちの言葉の真偽を見極めて、自分でしっかりと判断できた人もいるだろう。洗脳などされなかった人もいると思う。 でも、私はすっかり信じ込んでしまっていた。恥ずかしい話だが、親や学校や先生は絶対的な存在で、絶対的に正しいことを言っているものだと思ってしまっていたのだ。 私は、学校で言われてきた数々の「~してはいけない」「~しなければならない」等々の言説を鵜呑みにし、それらに素直に従って学校生活を送り、せっせと勉学に励んでいた。努力が称賛され、協調性が求められ、集団行動が重視される環境。道徳規範を教え込まれ、多くの常識・当たり前を刷り込まれる。不満や理不尽にも耐え、我慢を美徳とし、そ
私は以前、心のバランスを崩したことがある。それを克服したと思って過ごしていたのだが、再び身体にサインが現れた。 最初の経験を通して、私は自分の価値観は大きく変化したと思っていた。それまでは何事も努力し、苦しくても耐え、苦労も厭わず、我慢し、常に成長を目指していたように思う。それが最も素晴らしいことで、一番価値のあることだと思っていた。けれどこれからは自分を大切にしよう、人生を楽しもう、頑張り過ぎたりせずにバランスを大事にしようと思ったのだ。 確かにこれらの考えは、以前の私では絶対に考えられなかった、受け入れられなかった、そして到達し得なかった考えではある。もし心による強制終了がかかることなく、当時の考えのまま、あの延長線上を自分が進んでしまっていたら、と考えると本当にゾッとする。 けれど、再度体調不良のような状態に陥って分かったのは、根っこの部分では自分は何も変わっていなかったということだ
昨日は、物事の二面性についての記事を書いた。どんなものも相反する二つの性質を持っているため、「もしプラスの面を受け取りたければ、マイナスの面を引き受ける覚悟が必要だ」という言葉に、本当にその通りだと感じた。けれど頭ではわかっていても、それを実践することはなかなか難しいと思っていた。 しかしふと考えてみると、私たちの存在自体が「生と死」という究極の二面性を持っていることに思い至った。生と死は裏腹の関係にあり、常に背中合わせ、隣り合わせだ。 私たちの人生を死という観点から考えれば、生まれた時から死へのカウントダウンが始まっているとも言えるし、この世に生を受けた以上、私たちは死から逃れることはできない。 生まれる前、もしかしたら私たちは誰かに次のように迫られていたのかもしれない。 「人間として生きるか?生きたいならば命を与えることもできるが、永遠に生き続けることはできない。いつか必ず死が訪れる。
物事には必ず表と裏がある。よく、対立する概念を用いて「AとBのどちらが良いか」という二項対立の図式での議論を見かけたりする。けれど多くの場合、Aが良いか、Bが良いかは一概には言えないものだ。全面的に良い、悪いと言えるような絶対的なものはほとんどないからだ。 例えばある視点から見れば、AよりもBの方が効果的と言えても、それはあくまでその視点で見た場合の話である。別の視点から考えればBよりもAの方が良い、ということは往々にしてある。どんな物でもこちらから見れば善、あちらから見れば悪というように、メリットとデメリット、長所と短所があり、必ず両面があると思う。 そんなことを改めて実感していたときに、 「プラス(豊かさなど)を受け取るためには、その裏側に必ずセットになっているマイナスを受け入れる覚悟を持つこと。」 という意味の言葉に出会い、本当にその通りだと思った。 どんなものにもプラスの面とマイナ
以前の記事でも書いたように、最近の私は自分の心や本質から離れてしまっていた。 最初は自分がハンドルを握って運転していた。けれどいつの間にか、他の誰かにハンドルを奪われ、自分は地面に引きずられるように走っていたのかもしれないな、と思う。そして「ハンドルを奪われた」と感じているけれど、おそらく自分で渡したのだろう。 日常の流れに押されて忙殺され、考える暇などなくなってしまった。忙しさに文字通り、心を亡くしていた。「考えていたらやっていけない」というような感覚もあったかもしれない。本質は霞み、基準となる軸は自分から他人に移ってしまっていた。 本質は普段の生活の中で見えにくくなってしまいがちだと思う。最初は綺麗にしていても、徐々に常識や世間体、周りの意見や反応という雑草が生い茂って絡み付いて、かき分けて行かないとたどり着けなくなる。 これからも雑草は生えてくるだろう。でも今度生え始めたら、それに気
最近は、就職活動を経て無事に内定をもらうと、入社までの間に内定者懇親会や内定者研修なるものが開催されることが多い。そこでは、内定者同士の親睦を深めたり、改めて会社の詳しい説明等を受けたり、社会人としての基本的なマナーを学んだりする。先輩社員から話を聞く機会を設けている会社もある。 私も参加したのだが、その時に質疑応答の時間があり、一人の内定者がこんな質問をした。「私はこの業界に関する知識がまだほとんど無く、不安です。入社までの間に、どのような勉強をすれば良いですか?」 どんな業界であれ、学生から新入社員として働くとなれば、その業界の知識や経験はゼロに等しい。仮に知識があったとしても、それは机上で身につけた学生の知識であり、社会で役立つ、実用性を兼ね備えたものとは言い難い。 そこに社員として飛び込むのだから、確かに不安である。だから彼女は、読んでおくべき本はあるか、どう準備すれば良いかと聞い
次のページ
このページを最初にブックマークしてみませんか?
『seto-konatsu.hatenablog.com』の新着エントリーを見る
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く