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訃報/追悼に関するgrisellaのブックマーク (90)

  • 作家・山本弘氏ご逝去|

    2024年3月29日(金)、作家・ゲームデザイナーの山弘氏が誤嚥性肺炎により68歳でご逝去されました。葬儀は近親者で営みました。 代表作に、第28回吉川英治文学新人賞ならびに第27回日SF大賞候補となった『アイの物語』のほか、『神は沈黙せず』、〈MM9〉〈BISビブリオバトル部〉シリーズなどがあります。また、「と学会」初代会長をつとめ、〈トンデモ〉ブームの先駆者としても知られています。 山氏は1956年、京都府生まれ。京都市立洛陽工業高等学校卒業。78年、「スタンピード!」で第1回奇想天外SF新人賞佳作を受賞。88年『ラプラスの魔』で格的に小説家デビューを果たします。その前年に設立されたクリエーター集団「グループSNE」の一員として、テーブルトークRPG〈ソード・ワールド〉の立ち上げに参画、〈サーラの冒険〉シリーズをはじめとする〈ソード・ワールド〉に基づく小説の執筆、テーブルトー

  • 俳優・寺田農さん死去 81歳 最後まで仕事を続けながら…多数の作品で存在感 『ラピュタ』ムスカ大佐も

    同社は「弊社所属 寺田農が2024年3月14日未明、肺がんのため81歳で永眠いたしました。最後まで仕事を続けながら、諦めることなく希望を持って、治療に励んでまいりましたが、桜の開花を待たずして帰らぬ人となりました」と報告。 「これまで応援して下さったファンの皆様、多くの作品でお世話になりました関係者の皆様の生前のご厚誼に深謝いたしますとともに謹んでお知らせ申し上げます」と伝えた。 1942年11月7日生まれ、東京都出身。文学座付属研究所に入団。68年に映画『肉弾』で主演を務め、「毎日映画コンクール」で主演男優賞を受賞。多彩なジャンルのドラマ・映画・舞台で存在感を発揮した。また、『天空の城ラピュタ』ムスカ大佐役をはじめ、声の仕事でも愛された。 ■報告全文 弊社所属 寺田農が2024年3月14日未明、肺がんのため81歳で永眠いたしました。 最後まで仕事を続けながら、諦めることなく希望を持って、

    俳優・寺田農さん死去 81歳 最後まで仕事を続けながら…多数の作品で存在感 『ラピュタ』ムスカ大佐も
  • 映画プロデューサー叶井俊太郎氏死去、56歳 膵臓がん余命宣告から1年8カ月、倉田真由美氏夫 - おくやみ : 日刊スポーツ

    映画「アメリ」「いかレスラー」「ヅラ刑事」「日以外全部沈没」などで知られる、映画プロデューサーの叶井俊太郎氏が16日に亡くなったことが分かった。56歳だった。東京都出身。 22年6月にステージ3の膵臓(すいぞう)がんで余命半年の宣告を受けたが、抗がん剤治療、手術を拒否して、1年8カ月生き続けた。夫人は漫画家の倉田真由美氏。 23年11月に、ステージ4のがんを発表した際には、文化人15人と“余命半年”をテーマに語り合った著書「エンドロール」(CYZO)を出版した。また、同12月公開の映画「恐解釈 桃太郎」ではエンドロールに「叶井俊太郎に捧ぐ」と入れるなど、最後までウイットに富んだ姿勢で仕事人生をささげた。 叶井氏が医師の余命宣告を1年2カ月超える“偉業”を成し遂げて、永遠の眠りについた。22年6月に黄疸(おうだん)が出て検査、ステージ3で余命半年を告げられた。日刊スポーツの取材に「『余命

    映画プロデューサー叶井俊太郎氏死去、56歳 膵臓がん余命宣告から1年8カ月、倉田真由美氏夫 - おくやみ : 日刊スポーツ
  • 追悼 八代亜紀 | ROADSIDERS'weekly

    今年は年明けから暗いニュースが続きましたが、八代亜紀さんの突然の訃報には声を失ったひとがたくさんいたと思います。73歳・・・・・・まだまだご活躍されたはずなのに。 2009年に雑誌『アサヒ芸能』で「平成演歌物語」という短期間の連載をしました。ふだんはテレビでしか観ることのない演歌歌手たちの、来の活動場所であるライブの会場に行って、インタビューとステージの撮影をさせてもらう企画。なるべく東京以外の場所にしたくて、いろんな地方都市のホールを巡りました。 なんとかツアー、みたいにルートを決めて効率的にライブを重ねていくロックバンドとかとちがい、演歌歌手たちは「呼ばれるたびにそこへ行く」興行です。かなりの人数になるバンドメンバーも、大道具小道具もぜんぶ自分持ちで、スタッフが何人も前乗りして準備を整えて。メディアにはなかなか出てこない、そういう演歌世界のリアリティを知りたくて、水森かおり、田川寿美

    追悼 八代亜紀 | ROADSIDERS'weekly
  • ちょっと泣きそう…【高橋幸宏2枚組ベスト】選曲が鈴木慶一でリマスタリングは砂原良徳

    高橋幸宏がどんなふうに時代と向き合い、あるいは時代の先を行ったか 2023年は、来なら「YMO結成45周年& “散開” 40周年」のメモリアルイヤーになるはずだった。まさか「高橋幸宏と坂龍一が共に逝った年」になってしまうとは……。その2023年も終わりに向かう11月15日、幸宏のソロ作品を集めたベスト盤がリリースされた。『THE BEST OF YUKIHIRO TAKAHASHI[EMI YEARS 1988-2013]』(ユニバーサル・ミュージック)。タイトルどおり、EMI在籍時の1988年から2013年までの26年間に、幸宏がどんなふうに時代と向き合い、あるいは時代の先を行ったかがよくわかるベスト盤だ。 ただ幸宏の場合、存命中に創りあげた音楽当に幅が広く、ベスト盤の選曲が困難なアーティストだ。誰がどう選ぼうが「なんであの曲が入ってないんだ?」と横ヤリが入ることは確実だからだ。

    ちょっと泣きそう…【高橋幸宏2枚組ベスト】選曲が鈴木慶一でリマスタリングは砂原良徳
  • 【追悼:BUCK-TICK 櫻井敦司】ラバーソールの丸玉商店と同潤会アパートに住む猫たち

    かつて表参道の同潤会アパートにあった丸玉商店 同潤会青山アパートメント。現在表参道ヒルズがある場所には、大正15年に竣工された歴史的な集合住宅が表参道のシンボルだった。80年代の半ばからは、この建物にハイセンスなブティックやギャラリーが数多く入居。ラバーソールをはじめとするロンドンから直輸入されたシューズを扱う “丸玉商店” もそのひとつ。 当時、いわゆるラバーソールは入手困難品。クラッシュのメンバーがこのを履いている姿を雑誌で見て原宿の老舗店に行くがサイズがない。何とかならないものかと男性のラバーソールを履いたが、ぶかぶかに加えて重過ぎる。これに3万円近くは出せないのが音。売っている店は限られていたし、値段も当時としては高価だった。 そもそもレディースのサイズがないから仕方ない。でも、クラッシュと行動を共にしていた女性シンガー、パール・ハーバーのように履いてみたい。知り合いのデザイナ

    【追悼:BUCK-TICK 櫻井敦司】ラバーソールの丸玉商店と同潤会アパートに住む猫たち
  • ryuchellさん…突然の死に悲しみの声 “自分らしさ”発信の一方「覚悟したのにしんどくて怖くてたまらない」|日テレNEWS NNN

    タレントのryuchell(りゅうちぇる)さんが12日午後、東京・渋谷区の事務所で亡くなっているのが見つかりました。近年は、多様性や育児に関する発信をしてきました。どのような思いを抱えていたのでしょうか。 タレントのryuchellさんが12日午後5時半ごろ、東京・渋谷区の事務所で亡くなっているのが見つかりました。 今年4月のトークショーでは「しっかり向き合えるようになってきたかなというのはありますね。当に息子の純粋な優しい部分みたいなものに逆に気づかされたり、ありがたいなって思う瞬間もいっぱいあるので」と、11日に5歳になったばかりの息子との向き合い方について語っていました。 4日前、最後に投稿したInstagramには、自らの写真とともに髪の色を変えたことを報告していました。 ryuchellさんを発見したマネジャーが通報。現場の状況などから自殺をはかったとみられるということです。警

    ryuchellさん…突然の死に悲しみの声 “自分らしさ”発信の一方「覚悟したのにしんどくて怖くてたまらない」|日テレNEWS NNN
    grisella
    grisella 2023/07/13
    若い人が死ぬのは痛ましい。芸能界に入ってなかったら死なずに済んだのだろうか。
  • ryuchellさん死亡 都内の事務所で倒れているのをマネジャーが発見 自殺か(スポニチ) | 毎日新聞

    タレントのryuchell(りゅうちぇる、名比嘉龍二=ひが・りゅうじ)さん(27)が12日午後、東京都渋谷区内のマンション一室で倒れている状態で見つかり、まもなく死亡が確認された。 捜査関係者によると、マンション内の事務所でぐったりとしたryuchellさんをマネジャーが見つけ、同日午後5時33分に通報。警視庁代々木署員らが駆けつけたときは意識のない状態だったという。 同署は現場の状況などから自殺とみて、死亡した経緯などを調べている。 ryuchellさんは沖縄県から上京して古着店でのアルバイトと並行して読者モデルとしても活動。2015年、日テレビ系「行列のできる法律相談所」などへの出演をきっかけに人気となった。 16年12月28日にモデルでタレントのpeco(ぺこ=28)と結婚。18年7月11日には第1子となる男児が誕生したが、22年8月に法的な夫婦関係を解消し、今後は「人生のパート

    ryuchellさん死亡 都内の事務所で倒れているのをマネジャーが発見 自殺か(スポニチ) | 毎日新聞
  • 「中村哲の挑戦」でロングインタビューを観る - 高世仁のジャーナルな日々

    いま竹中工務店のギャラリーA4(エークワッド)で「中村哲の挑戦」展をやっている。これがすばらしい。 東京・江東区の竹中工務店社 1階のGallery A 4で6月22日まで 中村さんが、らい(ハンセン病)患者の足を保護するために独自に研究・開発したサンダルや手書きの設計図などの「ブツ」も見ものだが、私がもっとも感銘を受けたのは、これまで未公開だった中村さんのロングインタビューの動画だ。2006年4月に、日電波ニュース社の谷津賢二さんが聞き手になって撮影された。 現代という時代とその文明をどうとらえるか、その中で我々はどう生きたらいいのかについて語っていて、中村哲の思想を知る上でも貴重だ。谷津さんの質問が実に的確で、いい答えを引き出している。中村さんの一つひとつの指摘に、自分の生き方を考えさせられる。 聞いているうちに、書き留めておきたくなり、スマホで記録して「テープおこし」をしてしまっ

    「中村哲の挑戦」でロングインタビューを観る - 高世仁のジャーナルな日々
  • 【訃報】原尞氏逝去のお知らせ

    直木賞作家の原籙(はら・りょう、名 原孝=はら・たかし)さんが5月4日夜、福岡県内の病院で死去した。享年76。葬儀は家族葬で執り行った。 1946年佐賀県鳥栖市生まれ。九州大学文学部美学美術史科卒業。70年代はおもにフリージャズのピアニストとして活躍。30歳ころから意識的に翻訳ミステリを乱読し、とくにレイモンド・チャンドラーに心酔した。 1988年に私立探偵・沢崎が初登場するハードボイルド長篇『そして夜は甦る』で作家デビュー。日の風土にハードボイルドを定着させた優秀作として高い評価を得た。1989年の第2作『私が殺した少女』で第102回直木賞を受賞した。 その後長篇第3作『さらば長き眠り』(1995年)、第4作『愚か者死すべし』(2004年)と一貫して沢崎シリーズを書き続け、2018年に14年ぶりに発表した長篇第5作『それまでの明日』が遺作となった。短篇集に『天使たちの探偵』1990年

    grisella
    grisella 2023/05/10
    好きだった。
  • 伊集院光と大江健三郎 その1

    以前にも書いたように。「いいとも!」が終わったのをきっかけに、伊集院光のラジオをネット経由で聞くようになった。一人で事するのが嫌いなので、なにか音源が欲しかったからだ。 伊集院光のラジオが面白いというのは、小林信彦のエッセイで読んでいた。聞いてみたら、なるほど、面白い。基、くだらないこと、シモネタ、バカバカしいことを中心にしゃべっているのだが、その根底に、とても強いものがある。真面目すぎるほどの誠実、知性、寛容と頑なさ。 高校中退で、落語家出身、130kgの巨漢にしてスポーツ好き。野球は芸人でチームを組んで定期的に試合をしているし、ランニングは小さな駅伝大会に参加 するほど。自転車は、東京の自宅から出発して日を分けて掛川あたりまで走って行ってしまうほど。雑学王として名を轟かせながら、番組で「インテリ軍団」に 組み入れられることには抵抗を感じる。実力とコンプレックスが微妙に絡み合ったこの

    伊集院光と大江健三郎 その1
  • RADIO SAKAMOTO on Twitter: "幸宏との長い付き合いの中で、嫌なことは一つも思い浮かばない。 全ては楽しい思い出として残っている。 たくさんの地に行き、たくさんの経験を共にした。 最初の出会いは衝撃だった。 ケンゾーをまとったロックのドラマーがいるとは、と僕は目を疑った。"

    幸宏との長い付き合いの中で、嫌なことは一つも思い浮かばない。 全ては楽しい思い出として残っている。 たくさんの地に行き、たくさんの経験を共にした。 最初の出会いは衝撃だった。 ケンゾーをまとったロックのドラマーがいるとは、と僕は目を疑った。

    RADIO SAKAMOTO on Twitter: "幸宏との長い付き合いの中で、嫌なことは一つも思い浮かばない。 全ては楽しい思い出として残っている。 たくさんの地に行き、たくさんの経験を共にした。 最初の出会いは衝撃だった。 ケンゾーをまとったロックのドラマーがいるとは、と僕は目を疑った。"
  • 高橋幸宏、気高く飄々と極めたポップカルチャーの“粋” 最後の趣味人たる音楽家だった理由

    高橋幸宏の死去のニュースから1カ月近くが経過した(ここでは敬称略とさせていただく)。まだ実感がわかないという人も、じわじわと喪失感を覚えるようになったという人もいることだろう。いまだにこうして関連記事や追悼記事が発表されているし、国内はもちろんのこと、海外においても音楽専門メディアからThe New York Timesなど一般媒体までがその功績を讃えている。つい先日行われた『第65回グラミー賞』授賞式では、ボニー・レイット(最優秀楽曲賞受賞)によるクリスティン・マクヴィー(Fleetwood Mac)追悼パフォーマンスの最中に、バックスクリーンに高橋幸宏の写真も大きく映し出されていた。功績を讃える記事やパフォーマンス、明かされる証言やかつての発言などに触れ、その影響力のほどに改めて驚かされているリスナーも少なくないに違いない。 そのように展開されるとりわけ海外の追悼記事、パフォーマンスの

    高橋幸宏、気高く飄々と極めたポップカルチャーの“粋” 最後の趣味人たる音楽家だった理由
  • R.I.P. 鮎川誠 | ele-king

    連日レジェンド級のアーティストたちの訃報が続き、堪えるなと思っていたところへまたひとり……シーナ&ロケッツの、そして日を代表するロックンロール・ギタリストの鮎川誠が1月29日午前5時47分(シーナ!)に亡くなった。享年74歳。日中のロックンロール・ファンがいま、悲しみに暮れている。 昨年5月に膵臓がんで余命5ヶ月を宣告されてからも「一でも多くライヴをしたい」とツアーを続け、近年ではもっともライヴの多い一年になったという。最後までロックとライヴにこだわった生涯だった。 11月にはシーナ&ロケッツ45周年ワンマンを新宿ロフトで行った。ライヴ中にウィルコ・ジョンソンの訃報が入り、「ウィルコの分までロックするぜぃ!」と叫ぶ姿がYouTubeに投稿されている。 そんなウィルコ・ジョンソンやイギー・ポップといった鮎川とも交流のあったアーティストたちと同様に、鮎川はパンク以前とパンク以後、メジャー

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  • 「シーナ&ロケッツ」のギタリスト鮎川誠さん死去 74歳 | NHK

    人気ロックバンド「シーナ&ロケッツ」のギタリストとして知られる鮎川誠さんが29日、膵臓がんのため亡くなりました。74歳でした。 鮎川誠さんは福岡県久留米市出身で、1975年にロックバンド「サンハウス」のギタリストとしてメジャーデビューを果たしました。 1978年にはのシーナこと悦子さんとともにロックバンド「シーナ&ロケッツ」を結成し、「ユー・メイ・ドリーム」などの曲で人気を集め、「めんたいロック」と言われる福岡発のロックムーブメントをけん引しました。 また、ギタリストのかたわら俳優としても活動していて、NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」にも出演しました。 2015年にボーカルを務めていた悦子さんが亡くなったあとも、「シーナ&ロケッツ」としての活動を続けてきました。 所属事務所によりますと、鮎川さんは昨年5月に膵臓がんが見つかったあとも精力的にライブ活動を続けていたということですが、29

    「シーナ&ロケッツ」のギタリスト鮎川誠さん死去 74歳 | NHK
    grisella
    grisella 2023/01/31
    「とっぱちからくさやんつきラーメン」のCMに出てたと思ってたけど、確かめたら「はかたんもんラーメン」だった。他にもけっこうCM出てたんだな〜。かっこいい人だった。https://www.youtube.com/watch?v=KDTz8-3872w
  • https://twitter.com/rokketduction/status/1619970152271052801

    https://twitter.com/rokketduction/status/1619970152271052801
  • 【訃報】目黒考二 逝去のお知らせ - 本の雑誌特派員|WEB本の雑誌

    の雑誌」創刊者で弊社前社長の目黒考二(めぐろこうじ)が、2023年1月19日10時、肺がんのため永眠しました。享年76歳。みなさまには生前のご厚誼に心から感謝いたしますとともに、ここに謹んでお報せ申し上げます。 葬儀は近親者のみにて家族葬として執り行います。誠に勝手ながら、御香典、御供花、御供物の儀はご辞退申し上げますことをご了承ください。後日、お別れの会を執り行う予定です。 目黒考二は名のほか、文芸評論家・北上次郎、競馬エッセイスト・藤代三郎の名でも幅広い執筆活動を続け、エンターテインメント書評という新しい分野を確立しました。社員一同、故人の遺志を継ぎ、「の雑誌」をみなさまからより愛読される雑誌にしていく所存です。 なお、大変恐縮ではございますが、ご遺族および椎名誠氏へのお問い合わせや取材につきましては差し控えてくださいますよう、何卒ご理解とご協力の程、よろしくお願い申し上げます

  • 高橋幸宏 音楽の歴史 | ele-king

    高橋幸宏は1952年6月6日、東京で生まれた。父は会社経営をしており、自宅は200坪の敷地に建ち(もともとは天皇の運転手が建てた家だそうだ)、軽井沢には別荘を持っていた。 後に音楽プロデューサーとなる兄に感化され、早くから音楽に親しみ、小学生のときにはドラムを始めている。このドラムという楽器を選んだ理由にはドラムの練習ができるほど広い家に住む子がなかなかいないからだったと後年明かしている。 中学生のときにはユーミンが参加することもあったバンドを組み、高校生のときにはもうセッション・ミュージシャンの仕事を始めていたのだから早熟と言うほかないだろう。ドラムのうまい高校生がいるという噂を聞きつけて大学生だった細野晴臣が会いに来たのも高橋幸宏の高校時代のこと。大学に入るとガロに一時在籍するなど、すでにプロのミュージシャンとしての道も歩き始めていた。 そんな高橋幸宏の転機となったのは、旧知の加藤和彦

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  • タモリ YMOはクールだけどキュート「幸宏さんが体現」 高橋さんと40年以上親交 一緒に音楽も(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

    イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のドラマーで11日に亡くなった高橋幸宏さん(享年70)と40年以上の親交があったタレントのタモリ(77)が紙に追悼のコメントを寄せた。 【写真】高橋幸宏さんが21年7月に公開した喜代美夫人との仲むつまじい2ショット YMOの3人とは結成直後から親交があり1980年にニッポン放送「タモリのオールナイトニッポン」でロンドン公演の模様を伝えたこともある間柄。中でも高橋さんとは何度も共演しており「YMOはクールだけどキュートでもあった。それを体現していたのが幸宏さんだった気がします」としのんだ。 高橋さんはタモリが司会を務めたフジテレビ「笑っていいとも!」の名物コーナー「テレフォンショッキング」に計10回出演。YMO時代の82年に初出演し、細野晴臣とのユニット「SKETCH SHOW」や原田知世らと組んだバンド「pupa」としても登場している。音楽活動の

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  • YMO高橋幸宏さん死去 70歳 20年脳腫瘍摘出 懸命リハビリも 伝説のテクノサウンド ドラムで支え(スポニチアネックス) - Yahoo!ニュース

    1980年代にテクノブームを巻き起こした伝説のバンド「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のメンバーで日を代表するドラマーの高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)さんが亡くなったことが14日、分かった。70歳。東京都出身。死因や日時は明らかになっていない。2020年8月に脳腫瘍の摘出手術を受け、闘病中だった。高橋さんはYMOの音楽面だけでなく、赤い人民服など独特のファッションを打ち出すことで世界に衝撃を与えた。 【写真】昨年6月の誕生日翌日のインスタで公開した軽井沢で療養中の自身の姿 関係者によると、高橋さんは静養先の長野県軽井沢町で年明けに肺炎を患い、容体が悪化した。亡くなったのは今週とみられ、仕事仲間や親しかった人たちへの報告が始まっている。 20年初夏から断続的な頭痛に悩まされ、同年8月のMRI検査で脳腫瘍と判明。摘出手術は成功し、入院治療の全工程終了を報告した同10月のツイッター

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