明治の廃仏毀釈によって、全国で10万ケ寺あった寺院が5万ケ寺に減ったという記事を読んだことがある。その中で、浄土真宗は明治維新直後の廃仏毀釈の影響をあまり受けなかったと言われているが、いったいどういう経緯があったのか。 西本願寺は江戸時代を通じ朝廷に忠誠を誓っており、明治に入っても巨額の寄付をしてきた経緯から、政府も手を出さなかったことは理解できる。 ところが東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、元治元年(1866)年の蛤御門の変で堂宇が類焼した後慶応2年(1866)には逆に幕府から5万両の寄進を受けている。慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であったが、さすがに、戊辰戦争がはじまった頃には時代の潮流を感じたか、当時の厳如上人は朝廷に一札を入れて勤王方に着き、御