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ブックマーク / www.medieviste.org (5)

  • ヒュームへと向かう勾配

    イアン・ハッキング『確率の出現』(広田すみれほか訳、慶應義塾大学出版会)をとりあえず通読。うーん、個人的にはちょっとノレない感じの訳文で結構苦労したが(続いて読み始めた『知の歴史学』(出口康夫ほか訳、岩波書店)がとてもこなれていることを考えると、なにやら複雑な気分……)、中身はなかなか興味深い。確率の概念がいかに登場したかという問題を扱うだけに、その前史として消えていった別概念とか、競合するパラレルな議論のようなものがふんだんに取り上げられるのだろう……かなと予想していたのだけれど、個人的には確率概念の成立そのものにまつわる部分(同書の後半)よりも、その前史に関係する部分(前半)がいっそう興味深かった(笑)。キータームの一つをなす「蓋然性」(probable)という言葉はもともと、先行する書物の権威による学説を指す言葉だったという。これが転換していくのがルネサンス以降とされるわけだけれど、

    ヒュームへと向かう勾配
    contractio
    contractio 2014/03/09
    ハッキング『確率の出現』について。/「いずれにしても…このあたりはもっと具体的で緻密な検証がなされてほしい」 哲学者がそこまで全部やったら歴史家の仕事なくなっちゃうじゃないですか。
  • 「等価性」にどう抗うか

    震災からまもなく2年というタイミングでなんだが、いろいろ思うところもあり、ジャン=リュック・ナンシー『破局の等価性(フクシマの後で)』(Jean-Luc Nancy, L’Equivalence des catastrophes : (Après Fukushima), Galilée, 2012)に目を通す。これ、すでに邦訳も出ているけれど(『フクシマの後で: 破局・技術・民主主義』、渡名喜庸哲訳、以文社)、それが出る前に原書を購入してあったので、そちらで読んでみた。副題が「フクシマの後で」になっているのだけれど、ここでの「後で」というのは、連続性よりは断絶、先取りというよりは宙吊りという意味合いだとされている。というのも、フクシマの事故が明らかにした(アポカリプスの原義だ)のは、原子力に関して来は軍事利用も平和利用も区別などなく、ただ後付け的に文明論的な布置によって区別がなされている

    「等価性」にどう抗うか
    contractio
    contractio 2013/03/13
    ちょっとイラっとしたでござる。たぶん、読んだら「イラっ」じゃ済まない(から読まない)。
  • 政治哲学の曙 1

    今年の年越しの一つが、アンドレ・ド・ミュラ『政治哲学の統一性』(André de Muralt, “L’Unité de la philosophie politique – de Scot, Occam et Suarez au libéralisme contemporain”, Vrin, 2002)。これ、まだざっと三分の一を見ただけだし、中世プロバーの論考ではないけれど、すでにして、近代的な政治哲学の根っこが中世後期のスコトゥス、オッカムのラインにあることを示した好著、という印象だ。まずは認識論と意志論の考察。スコトゥスに端を発する(一応)とされる「主体が対象を認識する原因は、認識対象の存在にあるのではなく、むしろ神の照明(ないしはイデアの注入)にある」という考え方(これ自体はフランシスコ会派的なアウグスティヌス主義に連なる立場だけれど)は、オッカムにいたって主体から対象への志

    政治哲学の曙 1
  • トマスと西田哲学?

    長倉久子『トマス・アクィナスのエッセ研究』(知泉書館、2009)を読み始める。まだ半分ほど。著者の長倉氏は2008年1月に逝去されていて、これは古いものから近年のものまで、トマスに関する論文を編纂した一冊のようだけれど、まさに著者が後の世代に贈った遺書という感じでもある。いやいや単なる遺書という生やさしいものではないかも。これはむしろ挑戦状か。収録論文でおそらく最重要のものは、4章目の「<だ>そのものなる神」。一見するとちょっと変なタイトルに見えてしまうけれど、なんとこれ、西田哲学とトマス思想との対比を試みたもの。著者はトマスにとっての神、あるいは源としてのesseが、西田幾多郎のいう「絶対無」と同じく、現実を支えながらそれ事態はある絶対的な断絶の向こう側にあるものを、なんとか言葉で捉えようとする思想的な試みであるとし、あえて西田哲学はそこに「無」「場所」のような概念を持ち込んでいるせい

    トマスと西田哲学?
  • 嶋崎正樹 - Scriptorium 1 - libellus: 個体化理論の今昔

    個体化理論の今昔 ◇はじめに 神があまねく支配するとされた中世において、大きな問題の一つに「いかにして個々の人またはモノはかかる個々の人またはモノとなるのか」という問いがあったのは周知の事実だ。言い方を変えると、これは要するに、個体同士の間に見られる差異とは何かという問題でもある。「これ」は「あれ」と異なるからこそ「これ」なのだが、ではそもそも、「これ」は「あれ」とどう違うのか、またその違いはどこからくるのか。神が壮大な統一体として考えられている中にあって、個々の差異はどこから、なにゆえにもたらされるのか。12世紀以後、現実世界の細やかな観察(それはアリストテレスに負うところが大きいのだが)を取り込んだ段階で、そうした現実が突きつける個体の問題は一挙に前面に出ることになったのだ。 けれどもそれで終わりではない。一方でそうした個体の問題は、近・現代においても存続している。比較的最近のシステム

    contractio
    contractio 2007/11/10
    個体化論
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