明治時代に海外で起業した男の話を読んで衝撃を受けた。 1891年にシンガポールで起業というのは海外を拠点に事業を起こした日本人として初ではないか、とは思う*1。そして彼が堂々とやっていた事業は吐き気を催すようなものであった。 若者はもっとグローバルな経験を積んで起業しろ、みたいな無責任な風潮がある昨今、この起業家の話はもっと知られてもよいと思うのだけれど、Wikipediaもゆるい書かれ方をしているし、ほかにもこれといって記事がないしこの人を扱った本も絶版になっている。 というわけで宮本常一らによる「日本残酷物語I」から引用してこの起業家、村岡伊平治の人生を紹介してみる。 この頃の民俗学でよくあることだけれどあまり出典や採集状況が記述されていないうえ自伝は脚色が多いとされている*2という前提の上で読んでみて欲しい。 その男、村岡伊平治は慶応3年(1867年)に長崎県島原の荷受問屋に生まれた
ロシアの南西チェリャビンスクの、カザフスタンとの国境近くにカラチャイ湖という美しい湖がある。だがこの湖畔に1時間佇むと6000ミリシーベルトの放射線を受け、致死量を超える。世界で最も危険な湖なのだ。 ここにはロシア最大のマヤク原子力施設があった。元は核兵器開発のために造営され、長い間外国人が足を踏み入れることを禁じられてきた。1992年になり、初めて科学者が調査を始めると直ちに“世界一汚染された地域”であると宣言された。閉ざされた間、施設内ではメルトダウンが繰り返された。半減期が30年と言われるストロンチウム90やセシウム137などが、放射性元素のカクテルとなって川に垂れ流しされたという。 付近住民には癌が21%増、先天性欠損症が25%増、白血病は41%増と、明らかな健康被害が見られた。だが当時医師たちが放射能の影響について言及することは禁じられた。西洋の技術に追いつくため安全を軽視した開
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く