ライター 長谷川賢人 小説家の土門蘭さんに『書くこと、暮らすこと』をテーマにお話をうかがっています。 当店でも短歌とエッセイで綴る連載『57577の宝箱』や、人生の支えになる言葉や生き方を伺うシリーズ『でこぼこ道の常備薬』を執筆する土門さん。昨年12月に公開した「北欧、暮らしの道具店」のドラマ『スーツケース・ジャーニー』では、脚本にも挑まれました。 前編は、土門さんと「書くこと」の出会いをたどりました。後編では、書くための心がけから、ドラマ脚本のエピソードまで。そこから見える、「書く」と「暮らす」の関係とは? 前編から読む 文章を書く力とは、五感での記憶力 連載『57577の宝箱』で、短歌とエッセイを併せて、週に一度の公開を続けている土門さん。第64話の回に、こんな一節がありました。 ーーーーー 「週に1度エッセイを書くの、大変じゃない?」 この間、友人からそんなふうに聞かれた。「どうした
44歳で思うのは、文章化しなかった思考は消えてく。(仕事だけでない)
初めて「論文」を書こうとしている人向けの、主にメンタル面(気持ち)の対処をメインにした書き方の指南書。 (ただし、メンタル面だけでなく書き方全般についても説明しています。) 筆者が査読付き論文を書くときに経験した最も大変だった(辛かった)ことは、研究の中身や書き方自体ではなく、諦めずに論文を書き上げて提出しようという意思を保ち続けること、つまりモチベーションの維持でした。モチベーションの維持は、個人の気持ちの持ちようとして片付けられがちに感じます。しかし対処方法は少しながらあるように思うのです。 本資料が、論文書きを諦めてしまおうとしている、あるいは諦めてしまった過去がある人への励ましになることを期待しています。 (10/6追記:本資料内での「レビュアー」は、自分が書いている原稿を添削指導してくれる人のことを指しています。しかし一般的にはレビュアーとは査読者のことを指す場合が多いのでちょっ
みあんご!鎌倉と宮古島の占い師|オフィシャルブログ「遖 -APPALE-」 神奈川県鎌倉市⛩と沖縄県宮古島市⛱で占い師をしています。みあんご!こと、野原ミアです。自分の生きる意味とは何か?魂の使命や目的は?生きがいをどうやって見つけたらいいのか?そんな自分への探究のヒントをお届けしています。遖(あっぱれ)と自分を輝かせて生きよう! 頭の中でモヤモヤしていたことを 整理しながらブログを書いて、 スッキリまとまったときの爽快感! 書き終わった自分も気持ちいいし、 そういう記事はアクセス数も伸びる。 それに味をしめてくると、 心が大きく揺れるときまで ブログを書くのを待つようになる。 この程度のネタじゃウケないかな…… とか考えているうちに、間が空く。 そうなってくると、だんだん 新しい記事を書くハードルが 高くなってしまうんだ。 ブログを書く力は筋力と似ていて、 やらない日が続くと減っていくん
私がポスドクになって今の研究室に来たとき、イトウくんという学生がいた。 彼は学部の4年生で、卒業研究をやっていた。 私と彼は研究テーマが似ていたから、よく並んで座って話をした。 キャンパスのイチョウが黄色くなった頃、 「卒研発表までもう3ヶ月しかないです」と、イトウくんが言った。 「やばいね」と私は言った。 人ごとなので、たぶんニヤニヤしていた。 優しい私は、 「そろそろ卒論も書かないといけないね」と、追い打ちをかけようとした。 すると彼は、 「論文は書かなくてもいいです」と言った。 「えっ、そうなの?」 「はい。発表すれば卒業できます」 それを聞いて私は、 「そうなんだ。楽でいいね」と、心からうらやましそうに言った。 イトウくんは、 「そうですね」と、少し困ったように笑った。 このときのことを、私は今でも後悔している。 なんで論文なんか書くのか 私が卒業研究をやりはじめたとき、当時の先生
どれほど卓越した研究者が行った偉大な研究でも、論文として正確に伝えられなければその研究をアピールできません。そんな「素晴らしい科学論文を書く方法」を、「科学者が小説家から受けたアドバイス」という形で学術論文雑誌Natureが掲載しています。 Novelist Cormac McCarthy’s tips on how to write a great science paper https://www.nature.com/articles/d41586-019-02918-5 Natureが紹介しているのは、アメリカの小説家コーマック・マッカーシー氏から理論生物学者および生態学者のヴァン・サベージ氏に与えられたアドバイスを、進化生物学者のパメラ・イェー氏の考えと組み合わせたもの。サベージ氏は大学院生のときにマッカーシー氏と出会って以来、20年間にわたって科学論文執筆の際に編集アドバイスを
少しでも文章を書いたことのある人なら誰でも、滑るように快調に書き進んでいた手がいつしか重くなり、そのうち行き詰まってしまった経験があるだろう。 そして行き詰まったまま途中で放り出してしまった、未完結の文章がいくつもハードディスクの底に眠っている。 まだ書き始めていない人が「何をどう書いたらいいのか分からない」というのは、まだ分かる。 けれど、さっきまで散々書いていた人が、「何をどう書いたらいいのか分からない」状態に陥るのはどうしてか? 初期の知覚研究が錯覚を研究対象にしたように、あるいは誤答の研究が問題解決の重要な部分を明らかにしたように、「書けない」ことの分析は「書くこと」の本質のようなものに光を当てるかもしれない。 正解かどうか分からないが、答えの一つはこうだ。 内なる仮想の読み手 我々が何か書いているとき、話すときなどと違って、受け手がいま目の前にいる訳ではない。 つまり話すことと違
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