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2010年11月6日のブックマーク (4件)

  • 英語と日本人 その② - トーキング・マイノリティ

    その①の続き これまで英語圏に住んでいると自称するブロガーから、コメントやТBが何度かあったものの、いずれも好感が持てなかった。己の自慢話に興じていたり、現地の社会文化を讃え、対照的に日を貶しつけるケースばかりだった。そうなると、日在住の私としても不快になるし、容赦せず辛辣な見方をするようになる。特にその一人など、拙ブログに英文のコメントをしてきたことがあった。 好感を覚えない人物から、「Dear」の挨拶をされただけで気色悪いが、わざわざ英文で書込みする神経が理解できない。その前日、他のブログコメントには「日人は当に英語オンチですね」と書いており、嫌味と英語力自慢が目的としか思えない。 いかに英語オンチでも便利なことにネットには、電子英和辞書や翻訳ソフトまであるのだ。辞書があれば英語オンチの私でも簡単な英文は読めるし、他の日人も同じだろう。そして件の英文コメントを翻訳してみたら、

  • 鹿地亘 - Wikipedia

    衆議院法務委員会で鹿地事件に関する証言に臨む鹿地亘(1952年12月10日) 鹿地 亘(かじ わたる、名:瀬口貢(せぐち みつぎ)、1903年5月1日 - 1982年7月26日)は、日小説家。大分県西国東郡岬村(現・豊後高田市)出身。東京帝国大学国文科卒業、東京帝国大学大学院博士課程修了[1]。は池田辛子。 生涯[編集] マルクス主義者[編集] 東京帝国大学在学中から文学と社会運動に関心をもち、林房雄や中野重治たちと社会文芸研究会(のち、マルクス主義芸術研究会に改名)を運営した。大学の外でも、プロレタリア文学運動に参加し、1930年に『労働日記と』で注目を浴びる。ただ、当時は文学をプロパガンダに使うことを重視していた傾向があった。1932年に日共産党に入党[1]。 1934年に治安維持法違反で検挙された後、獄中で転向して出獄[1]。1936年に中華民国にわたり、魯迅と親交をもつ

    鹿地亘 - Wikipedia
  • 三光作戦 - Wikipedia

    三光作戦(さんこうさくせん)または三光政策(さんこうせいさく)とは、北京語で「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」(中国語: 杀光、烧光、抢光: 殺光・焼光・搶光[注釈 1][注釈 2]) を意味する用語。蔣介石が「軍事が三分、政治が七分」と称し、保甲連坐法をしき実施した作戦を指し[2]、日軍の過酷なふるまいに対する中国側の呼称としても用いられた[3]。1931~34年の国民党軍による瑞金掃討作戦に観戦武官として参加した岡村寧次北支方面軍司令官がそれを適用したと言われ[4]、主に共産党の八路軍根拠地に対して行われたとされる[5]。[要検証 – ノート]日側では「燼滅作戦」と呼ばれることもある[6]。 概要[編集] 貝塚茂樹は、「三光政策」を「ゼークトにより蔣介石軍がとった、ソヴェート地区の壮丁をみなごろしにする殺光、住家を焼きつくす焼光、料を略奪しつくす搶光」としている[7]。第五次

  • 角運動量保存の法則 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "角運動量保存の法則" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年7月) 角運動量保存の法則(かくうんどうりょうほぞんのほうそく)とは、質点系について、単位時間あたりの全角運動量の変化は外力によるトルク(力のモーメント)に等しい(ただし内力が中心力であるときに限る)という法則である。角運動量保存則ともいう。 この特別な場合として、外力が働かない(もしくは外力が働いていたとしてもそれによるトルクが0の)場合、質点系の角運動量は常に一定である。例えば、フィギュアスケートの選手がスピンをする際、前に突き出した腕を体に引きつけることで