タグ

人生と宮城に関するlaislanopiraのブックマーク (59)

  • 2011年3月11日、学期最後の朝会で校長が子どもたちに贈った言葉は現実になった(加藤順子) - エキスパート - Yahoo!ニュース

    5年前の東日大震災で学区が被災したことをきっかけに入学する児童の数が激減し、2015年度末で閉校となった宮城県石巻市立門脇小学校で、当時の鈴木洋子校長が朝礼で子どもたちに贈った言葉がある。「桃花笑春風」。この言葉を贈られた最後の学年、当時の1年生たちは、来週小学校を卒業する。私自身、発災から3週間後に鈴木元校長に取材し、人々が去った後も春は巡ってくるという意味のその言葉を、かみしめながら石巻での取材を続けてきた。その後上梓した書籍『ふたたび、ここから 東日大震災石巻の人たちの50日間』(池上正樹著、ポプラ社)より、筆者が執筆協力した内容の一部を抜粋して掲載する。 ◇◇◇ 卒業生たちの名前が順番に呼びだされ、ひとりひとり「はい!」と答える大きな声が聞こえる。 4月15日、石巻市立門脇中学校3階にある満員の小さな視聴覚室。保護者や教職員、数多くのメディアが見守る中、門脇小学校の卒業式が行わ

    2011年3月11日、学期最後の朝会で校長が子どもたちに贈った言葉は現実になった(加藤順子) - エキスパート - Yahoo!ニュース
  • 南三陸町戸倉の資料修復状況報告:2016年3月

    2011年7月から開始した津波被災資料(南三陸町の三浦さんよりお預かり)の修復作業について、2016年3月時点での進捗をご報告致します。 思い起こせば、事績調査のために青森の八甲田山麓へ行き、修復依頼のために京都と関東と現地の南三陸町を何度か往復した5年間でした。

    南三陸町戸倉の資料修復状況報告:2016年3月
    laislanopira
    laislanopira 2016/03/13
    "明治以降の三陸沿岸は、津波と戦争の絶え間ない時期であった"
  • 『16歳の語り部』――子どもたちが歩んできた3.11/雁部那由多 - SYNODOS

    東日大震災による津波被害を受けた宮城県東松島市に、3人の高校生がいる。 彼らは、あの日をただのつらい過去にせず、学びに変えるために立ち上がった「若き震災の語り部」だ。彼らはこの5年間、何を思い、何に迷い、成長してきたのか。なぜ、あのつらかった日のことを語り出さねばならなかったのか? 絶望の風景から未来へと歩き出した3人の高校生の言葉をまとめた『16歳の語り部』(ポプラ社)から、一部転載する。 あの日、あのとき。 僕は、小学5年生だった。体育館で体育の授業を受けていた。 学校に迫り来る津波を見た。目の前で人が流されていった。 がれきの山に遺体を見た。自宅はヘドロに埋もれていた。 行方不明の友だちは帰ってこなかった。 僕たちは震災を口にしないように気をつけて、 何もなかったかのようにふるまった。 あれから5年。僕は語り伝えたい。 あの日のことを、自分の言葉で。 二度と悲しみが繰り返されないよ

    『16歳の語り部』――子どもたちが歩んできた3.11/雁部那由多 - SYNODOS
  • 『気仙沼ニッティング物語 いいものを編む会社』 - HONZ

    100年続く会社を作ること。100年続く老舗をめざすこと。100年続く事業を育てること。書には100年という言葉が何回も出てくる。学ぶべき先輩企業は創業180年目を迎えようとしているエルメスや、室町時代からつづく和菓子の虎屋だという。この気宇壮大な目標を持つ会社の名前こそ、書のタイトルにもなっている「気仙沼ニッティング」である。 ニッティングの広義は編み物一般だが、狭義はおもに2の長い棒を使う棒針編みのことだ。両手に棒を持ち、人差し指を器用に動かして、マフラーやセーターを作る手芸だ。アマゾンの売り場で「編み物」を検索すると5786点もの書籍や雑誌がヒットする。日ヴォーグが発行する季刊誌「毛糸だま」の発行部数は56,000部だ。多くの人々にとっては家庭内での実益を兼ねた趣味だ。しかし、気仙沼ニッティングはそれを生業にする会社として2013年6月6日に誕生した。 古来6歳6月6日は習

    『気仙沼ニッティング物語 いいものを編む会社』 - HONZ
  • 「人は簡単に『忘れてはいけない』という。でもね......」外国人歴史家が体験した3.11 | ハフポスト

    オーストラリアに生まれ、日に40年以上暮らした歴史学者が、2011年3月11日、宮城県で被災した。彼はその日を、そしてそこから4年を、どう過ごし、考えたのか――。

    「人は簡単に『忘れてはいけない』という。でもね......」外国人歴史家が体験した3.11 | ハフポスト
  • 【アンジュルム】朝日新聞の震災被害のあの子は佐々木莉佳子だったんだな : ハロプロまとめトーク

    気仙沼で活動する小学生アイドル・佐々木莉佳子親子の2年「思い出は流れたけど、私たちには未来がある」 http://wpb.shueisha.co.jp/2013/03/23/17875/ 震災から2年たち、前に進み始めた佐々木親子。自然な笑顔も出るようになってきた 莉佳子ちゃんが通っていた南気仙沼小学校。津波は校舎の2階まで押し寄せた。現在は閉校となり、更地になっている SCK GIRLS・佐々木莉佳子の誕生 2月中旬、自宅のあった場所に建てた新工場が完成した。 地震が起きてから数ヵ月、海を見るのも怖かったという莉佳子ちゃん。 最近ようやく「早く美しかった頃の気仙沼の海に戻ったら、海水浴に行きたいな」と笑えるようになった

    【アンジュルム】朝日新聞の震災被害のあの子は佐々木莉佳子だったんだな : ハロプロまとめトーク
  • 「大好きだよ」瓦礫に母残し4年 19歳が誓った言葉 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

    ■東日大震災追悼式の宮城県遺族代表、菅原彩加(さやか)さん(19)=石巻市出身=のことば 私は東日大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。 小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。 あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。 しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んで

  • NHK NEWS WEB 知られざる死の記録〜仮埋葬

    3年前の東日大震災で、被害が大きかった沿岸部では、亡くなった人を火葬することさえできなくなり、遺体を一時的に土に埋める異例の「仮埋葬」が行われました。 震災から3年を前に、NHKは、詳しいことはあまり明らかにされていなかったこの「仮埋葬」の詳細な資料を入手し、関係者から話を聞くことができました。 巨大災害が奪った死者の尊厳、家族の死を受け止められない遺族、悩みながらその知られざる死の実態に仙台放送局の廣川裕輔記者が迫りました。 残された死の記録 「仮埋葬」は、震災発生直後の3月21日から6月8日にかけて、火葬場なども大きな被害を受けた宮城県内で行われました。 土に埋められた人は、2108人に上りました。 当時、「仮埋葬」の様子は大きく報じられ、家族をしっかり弔うことができない大災害の一面として多くの人の記憶に刻まれました。 遺体は、その後、11月にかけて掘り起こされ火葬されまし

    NHK NEWS WEB 知られざる死の記録〜仮埋葬
  • 東日本大震災で津波で死に掛けたけどなにか質問ある? : ゴールデンタイムズ

    1 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2013/11/25(月) 17:14:03.49 ID:DBypVgqx0 因みに被災当時中3 現在高3 3 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2013/11/25(月) 17:14:36.29 ID:zuE652Aa0 大っきくなったな 113 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2013/11/25(月) 17:46:07.29 ID:aD/M2ir2i そんな月日がたってることに驚きだわ 6 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2013/11/25(月) 17:15:26.84 ID:8Y1ncjkU0 計算合わなくね? 11 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2013/11/25(月) 17:16:26.20 ID:DBypVgqx0 >>6 中学卒業前だか

    東日本大震災で津波で死に掛けたけどなにか質問ある? : ゴールデンタイムズ
  • not found

  • 【東日本大震災】交際相手に「大津波来た」惨事直前、緊迫のメール 南三陸町の24歳女性職員 - MSN産経ニュース

    東日大震災の津波に襲われた宮城県南三陸町の防災対策庁舎で亡くなった町職員、三浦亜梨沙さん=当時(24)=が、流される直前、交際していた男性に「大津波来た!」とメールを送っていたことが5日、分かった。やりとりされたメールは5通あり、「ぜってー死ぬなよ!」と呼び掛ける男性に「死なない!愛してる!」と応えるなど、緊迫する状況下で互いの安否を気遣い励まし続けていた。 亜梨沙さんの母悦子さん(54)は「今年1月に遺体が見つかり、かすかな生存の期待を失いつらい時期もあった。もうすぐ1年で、メールもやっと見られるようになった」と話している。 亜梨沙さんの自宅も津波で流され、写真や思い出の品の多くを失った。男性は昨秋、撮りためていた亜梨沙さんの写真やメールを遺族に届けた。「6メートルの津波が来ます」 最後まで放送の南三陸町職員の死を悼む

  • 河北新報 東北のニュース/津波にのまれたドイツ人一家救助 命の恩人見つかる

    津波にのまれたドイツ人一家救助 命の恩人見つかる 津波から救出したドイツ人一家の消息を伝える河北新報の記事に目を通す庄司さん=東松島市 宮城県多賀城市内で東日大震災の津波にのまれたドイツ人一家が、救助してくれた人を探しているとの記事が17日付河北新報朝刊に掲載され、この人は東松島市の自営業庄司武志さん(38)と分かった。自らも車ごと津波に流されたが、冷静な判断と機転で一家を救った。庄司さんは「当然のことをしただけ」と話している。  ドイツ人一家はユルゲン・シュピールベルクさん(72)、(67)、娘(33)の3人。3月11日の震災当日は国内を旅行中で、多賀城市内で乗っていたタクシーごと津波に巻き込まれた。  庄司さんはあの日、仕事先の仙台市内で地震に遭った。自宅に帰ろうと、多賀城市内の国道45号を運転中に津波に巻き込まれた。  幸い、トラックと電柱に挟まれて車が停止。近くのアパートに避難

  • 北仲スクール主催 ヨコハマトリンナーレ2011連携プログラム クシシュトフ・ヴォディチコ「アートと戦争」

    クシシュトフ・ヴォディチコ アートと戦争 国際シンポジウム + パブリック・プロジェクション≪Survival Projection 2011≫ クシシュトフ・ヴォディチコと室井尚-- 国籍も世代も違う二人の男の運命的な出会いからこの企画は生まれた。 2001年の第一回横浜トリエンナーレ、そしてあの「9.11」から10年。 再び巡り会った二人は京都、東京、パリで熱のこもった議論を重ね、イベントの準備を進めてきた。 いま、「3.11」以降の日から世界中の人々に向けて、ヴォディチコは力強くメッセージを発信する。 彼に共鳴する国内外のゲストが続々と横浜に集い、ここから何かがはじまる! ■ニュース ■取材のご依頼とお問い合わせ 北仲スクール事務局 (横浜文化創造都市スクール事務局) 〒231-0003 横浜市中区北仲通5-57-2 北仲BRICK2階 広報担当:宮裕子 TEL:045-263-

    laislanopira
    laislanopira 2011/07/24
    パブリック・プロジェクション
  • artandwar2011

    Japanese English

  • 東日本大震災:絵の中の少年と再会 石巻で3年ぶり - 毎日jp(毎日新聞)

    油絵のモデルとして描かれた須田雄大さん(右)と再会した野田恵一さん=宮城県石巻市で2011年6月19日、津村豊和撮影 宮城県石巻市で、港で働く少年の絵を店に飾っていた野田恵一さん(67)が19日、モデルの中学2年生、須田雄大さん(13)と3年ぶりに再会した。ともに自宅が津波で被害を受け、連絡が取れずにいた。毎日新聞が震災後掲載してきた「希望新聞」が二人を引き寄せた。 市内で弁当店を営んでいた野田さんは市内の漁港で3年前の夏、家業のカキ養殖を支える少年をモデルに油絵を描いた。絵は津波で泥をかぶったが、野田さんは「石巻にこんな海があったことを思い出してほしい」と、泥を洗い落とし、店に再び掲げた。 須田さんはこの少年のモデル。大きなかごを両手でつかみ、しっかりとこちらを見つめる絵の少年はすっかり大きくなっていた。 この絵で市美術展の最高賞を取った野田さんは再会に「お礼も言えず、気がかりでしたが、

  • 『震災!九死に一生・・・18時間の漂流』

    Free time. It is found for myself. Let's live brief life happily, and beautifully. (自由な時間。 それは自分で見つけるものなの? 儚い人生を楽しく、美しく生きてみましょうよ。) 「どうも、この度はお見舞い申し上げます・・・そして、お悔やみ申し上げます・・・」 「いやいや、話してたしゃ、次の日にしゃ、まさがこんなことにしゃ、なっと思わなかったしゃ。1日遅がったらしゃ、料理長さんもしゃ、お陀仏だったなしゃ」 震災以来2か月ぶりに大内さんとお会いした、最初の会話でした。 震災にあわれているにもかかわらずにっこり私に笑い、瓦礫となった自宅を片付けていました。 彼は私たちに弱いところを全く見せず、言葉もまた震災前と変わらず仙台弁の「しゃ」でした。 意外と元気な大内さんをみて、少しホッとしました。 私が今日お会

    『震災!九死に一生・・・18時間の漂流』
  • 「東北関東大津波大震災」結城義晴・渾身の現地レポート「五章 ヨークベニマル湊鹿妻店長物江信弘物語〈後編〉」 | 商人舎 結城義晴ブログ

    2011年04月12日(火曜日) 「東北関東大津波大震災」結城義晴・渾身の現地レポート「五章 ヨークベニマル湊鹿店長物江信弘物語〈後編〉」 チャリティセミナー 「ひとつになろう日!商人支援プロジェクト」 ㈱商人舎として、参加、協力しています。 皆さんにも、ご参加を要請します。 私は、今回の「東北関東大津波大震災」に対して、 自然の猛威に恐れおののくとともに、 日商業のライフラインとしての働きぶりに感動し、 商業にかかわってきた者として誇りにしたいと考えています。 その被災地の商人を支援するプロジェクト。 私たちは会社の名前を「商人舎」としました。 つまり「商人が集まるところ」。 だから、こういったプロジェクトには、 何をおいても参加します。 結城義晴にできること、 ㈱商人舎に可能なことなら、 喜んで、進んで、行いたいと思っています。 従って今、進行中の単行の印税は全額、 被災地の義

  • 九死に一生 – 模型工房YOUKI

    **国内最大の災害となった東日大震災で、九死に一生の体験を日誌として毎日綴ったものです。** 「津波にのまれ九死に一生」 助かった・・・・そう実感できたのが病院からの徒歩で帰宅途中高台からの騒然なわが街を一望した瞬間だった・・・・。 3月11日午後2時43分だったと思う・・・その揺れは起こった。 いつもの通り工房内で仕事中であった。いつもと違う揺れに右往左往するうちに、工房内は足の踏み場もなくなっていた。 注文いただいた主翼や胴体の造る途中の物が壊れていく様子を見ながら耐えた・・・ 「工房がつぶれる・・・」と初めて思った・・・・。 約100秒間、横揺れの中でも和室を経て居間まで行き、壊れそうなテレビを手で押さえていた・・・・・今回はずいぶん長い・・・揺れが強くなり初めて「家がつぶれる・・・」と思い窓を開け外へ飛び出した。 近所の方々も外へ出ていた・・・ いろんなメディアで、「もう来る 来

  • 河北新報 東北のニュース/「安全だから家にいろ」津波、母と妻のむ 後悔と悲しみの日々

    「安全だから家にいろ」津波、母とのむ 後悔と悲しみの日々 自宅跡地に立つ及川さん。「当に何もかも流された」=宮城県南三陸町歌津 宮城県南三陸町歌津峰畑の農業及川道男さん(62)は、3月11日の東日大震災発生直後の判断を悔やみ、自らを責め続けている。自宅は海抜10メートルより高い場所に建ち、津波が来ても安全だと信じていた。同居していた母とに自宅に残るよう指示したが、大津波は2人を自宅ごとのみ込んだ。母は亡くなり、は行方不明のままだ。  及川さんの自宅があった場所は現在、がれきが散乱し、家屋の基礎がわずかに残るだけだ。及川さんは変わり果てた自宅を見る度、母テル子さん(84)とよし子さん(60)に地震直後に伝えた言葉を思い出してしまう。  「うちが一番安全だ。どこにも行かないで、ここにいろ」  判断の根拠はあった。1960年のチリ地震津波で、周囲の家は津波にのまれたが、やや高台にある

  • 名取市閖上(ゆりあげ)復興支援のブログ : 地元の友達、達也君の日記。その①

    2011年05月07日16:11 カテゴリ 地元の友達、達也君の日記。その① 今日から地元の同級生のジャンボこと、達也君の日記を3日間載せていきます。 その前に2日前に閖上に行った様子。 更地が多くなってきた。 そして今日朝から 「閖上行ってくるから・・・」 と父から電話があった。 なぜ最近になって、こんなに頻繁に閖上に行くかというと。 我が家が取り壊される日が近いからだ。 それならなんで取り壊しにかかるとき連絡はいらないと言ったのだろう。。。 今日はまだ家があったらしい。 明日は母の日だ。 どこに母がいるのか分からない今、思い出の残っている家に花をプレゼントしに行こう。 なくなってたらどうしよう。。。 ここから達也君の日記↓ ------------------------------------------------ 3月11日 『絶望と恐怖』 この日は地震があった日でもあり、上の子