これは前回の「美学は人工知能をどう語るのか」の続きというか、本当はこちらの方が書きたかったのだけれど、昨晩は時間がなくて展開できなかった。前回の記事だけだと一学会に関する事柄のように読まれるかもしれないが、そんなことでは全くなく、学会や人文系の研究環境に限られた問題ですらなく、議論したいのは私たちが今生きている社会全体に関わる問いである。それはまた、もっと前の記事で取り上げた「人間が(性能の低い)人工知能として振る舞う」というトピックにも関わっており、美学会で発表を予定している内容の根幹となるものでもある。 学会発表とか論文の内容を公開のブログで記事を書きながら考えてゆくなんて、若い人たちはしない方がいいと思うが、ぼくはもう業績とか評価とか関係ないので、まったく構わない。自分の思考自体がパブリック・ドメインだと思っているのである。この意識は新しいようで古いものであり、近代の制度化された学問
しばらくこのブログを書かなかったのは、特に理由があるわけではない。忘れていたわけでもないのだが、少し間が空くと、何となく書きにくくなる。動画の配信の場合と同じである。そういえばこの数ヶ月、どちらかというと動画の方に気が向いていて、書くことがちょっとおろそかになっていた。それはたしかだ。 室井尚さんが3月21日に亡くなったこと、その前後のことや、彼と計画していた「哲学とアートのための12の対話」についても、ここではまだ書かなかった。学会誌に訃報や追悼のテキストを書いたり、「対話」については彼の亡くなる9日前の3月12日に銀閣寺でプレトークを行い、その記録は動画でもテキストでも公開しているのだが、そうした作業に追われてこのブログでの投稿に戻ってくる余裕がなかったかもしれない。ちなみにそれらについての情報は以下↓にあります。 https://mxy.kosugiando.art/?fbclid=
スキャンダルは昔は新聞・雑誌やテレビを通じて拡散したが、今はそれがネットに落ちることによって、さらに高速に、さらに広範囲に拡散する。新聞・雑誌やテレビの報道だって断片的でちっとも信頼できなかったが、それがネットになるとさらに断片化され、信頼どころかそれを元に何かを考えることすら無意味なほど、情報が劣化してしまう。 とりわけ、色恋沙汰にまつわるスキャンダルはそうだ。個人的に知っている人たちが巻き込まれる色恋沙汰ですら、本当の事情は当事者たちにしか分からない。当事者自身だって分からないのかもしれない。ましてや知らない人たちの問題なんて分からない。裁判になっているなら、その判断を待つしかない。怪しげな伝聞からの憶測を元に、どちらかの味方をしてヤイヤイ騒いでもまったく意味がない。 意味がないのに私たちはつい騒いでしまう。それはスキャンダル自体には関係のないことで、私たち自身が抱えている不安や弱さが
陰謀論もウィルスと同じように広がり、またウィルスと同じように、陰謀論から身を守ることのできる確実なワクチンというものは存在しない。 事実を直視しなさい!と言っても、コロナ騒動にせよアメリカ大統領選挙にせよ、私たちのほとんどが見ている「事実」というのは、みずから現場に赴いて目の当たりにする現実ではない。メディアによって媒介された情報である。私たちが「あなたは事実から目を逸らしている」と言っても、陰謀論者はその「事実」を伝えるメディアが操作されていると主張するのだから堂々巡りであり、彼らを議論で説得することは不可能なのである。 陰謀論は理屈でない。むしろ感情である。だから合理的な議論の対象というよりは、美学の対象なのである。美学は陰謀論に対するワクチンにはならないけれども、一種の鎮静剤くらいにはなる。なぜなら美学とは、「事実」を問題にするのではなく、直接的な感覚経験、「直感」を問題にする態度だ
“The Slow Death of Mass Media,” the english version is below. 2021年になった。 数字の上では2001年から21世紀は始まったわけだけど、2021年というのは、下二桁に小さな21が付いて、いよいよ本当の21世紀が始まったような気がする。 20世紀だって、1901年に突然始まったわけではない。1900年代初頭なんてヨーロッパは実質まだ19世紀だった。文化や社会の20世紀的変容が際立って来るのは、第一次世界大戦が終わってからだ。新しい世紀が実際にスタートするには、20年くらいかかるのかもしれない。 もはや私たちの不可欠な日常の一部となったインターネットにしてもそうだ。広く普及してほぼ20年、しかし今の状況がネット社会の必然的な形であるとは、ぼくはまったく考えていない。今私たちが生きているのはただの混乱期だ。最初の20年は、それ以前
2015年に開催された「PARASOPHIA 京都国際現代芸術祭」に向けて、ディレクターの河本信治さんから頼まれ、学生たちと一緒に『パラ人』という「半公式」出版物を作っていた。そこで編集・デザインを担当していた浅見旬さんが、卒業後東京で「well」というスタジオを運営している。ファッションデザインと出版が主な活動だそうだが、その中に『Diaries』というオンラインの出版プロジェクトがある。コンセプトは、「市井(しせい)の日々の記録集」ということで、つまり普通の人々に一週間日記を付けてもらい、それを読み物として配信するというものである。ぼくはそれをこの6月に依頼されたので送ったのだが、それが昨日来た。 不思議なことを考えるものだと思った。ぼくは日記をつけない。だから自分の過去の日記を読むことはないし、他人の日記を読む機会ももちろんない。ふつう日記というのは、誰かに読まれるために書くものでは
10月24日(土)に京都大学文学研究科で行われた、「緊縛ニューウェーブ×アジア人文学」という、不思議なタイトルのシンポジウムに出演した。京大文学部に勤めていた頃の同僚である出口康夫さん(哲学)に頼まれて、ふーん文学部でそんなことやるのかという、まあ興味本位で参加したのである。本来は4月に予定されていたのだが、コロナのために延期されたのだった。かなりの人が現地に観に来て、オンラインの視聴者も国内外から何万という単位であったらしい。大変なイベントに呼んでもらったということが後で分かった。 とはいえぼくは、「緊縛」という文化についてほとんど何も知らないし、「アートとしての緊縛」という題を最初にいただいたが、到底そんなことは話せないと思って悩んだ挙句、「縄と蛇」という話をした。縄が人間身体を緊縛する以前に、縄はそもそも自分自身を緊縛しているではないかという考えから、縄の想像的・象徴的・神話的起源で
以下の原稿は、もともと2019年10月12-13日、東京の成城大学における第70回美学会全国大会のために用意した講演原稿ですが、台風19号のために中止となったため、2020年1月12日に同じく成城大学において発表させていただいたものです。その後、雑誌『美学』に掲載するという話もあったのですが、字数制限などがあり残念ながら実現しませんでした。美学会の将来ということを意識した内容なので、このまま一般の雑誌原稿としても発表しにくいため、ここで共有したいと考えました。 〈1〉「歴史の終焉」が意味するもの 2010年、中国の北京大学において、第18回国際美学会議が開催されました。その時の大会テーマは「美学の多様性(Diversities of Aesthetics)」というものでした。企画者のひとりであった佐々木健一氏はそこで「美学の哲学的役割(Philosophical Role of Aesth
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く