普天間基地の移転問題がなかなか解決しない。 問題がなかなか解決しないのは、誰もが満足できるソリューションが存在しないからである。 当たり前のことを言うな、と言われそうだが、「誰もが満足できるソリューションが存在しないとき」に「早く、誰からも文句のでない決定を下せ」と言い立てるのはあまり賢いふるまいとは思えない。 「できるなら、しているよ」 ということである。 「先送り」というのはひとつのアイディアである。 これについてはかつて春日武彦先生から含蓄のあるお話しをうかがったことがある。 精神科に通ってくる患者の中にはしばしば家族関係のしがらみで「どうにも身動きならない」という窮状にあるものがいる。 あちらを立てればこちらが立たずという状況である。 そういうときには「先送り」するという手が有効だと春日先生はおっしゃっていた。 先送りにしているうちに、原因となっていた家族の誰かが死んだり、入院した
倉吉東高校に講演に行く。 この高校の芝野先生という方がたいへん熱心な「ウチダ読者」で、ご招請いただいたのである。 増田聡くんによると、「たいへん熱心なウチダ読者」のことを業界の一部では「タツラー」というそうである。 ええ、そうなの〜 「ウチダー」よりはいいでしょうと増田くんは言う。 まあそうだけど。 とにかく、その先生の音頭取りで全校をあげて「ウチダ本」を読む運動を展開されているらしい。 生徒たちはしかたなく近くの書店に行って「ウチダタツルの本ありますか?」と訊くことになる。 倉吉の書店の人も次々に高校生がやってきてはウチダ本を求めるので、さぞや驚かれたであろう。 そのせいで倉吉の書店では「内田樹コーナー」を作ったそうである。 リバプールでレコード屋をやっていたブライアン・エプスタインのところにある日レイモンド・ジョーンズという少年が来て、「ビートルズのレコードある?」と訊いた。 ブライア
金曜の午後歯を抜いた(これで8月から14本目)。 そしたら、歯茎が炎症を起こしたらしく、腫れて来た。 朝起きたら、頬がぷっくりふくれている。 『あしながおじさん』に歯が痛くて顔を腫らしているジェリューシャ・アボットのマンガがあるが、それにそっくりである。 でも、仕事は待ってくれない。 『現代霊性論』の校正締め切りが月末ですよと加藤さんからリマインダーが入る。 げ。 あと二日しかないではないか。 忘れていた私が悪いのであるが、覚えていたとしてもやる時間がなかったという事実に変わりはないので、反省しても仕方がない。 困った。 月曜締め切りの原稿も二本ある。 書いてない。 どうしよう。 困った。 しかし、頬を腫れ上がらせた男はこれから京都に行かねばならぬのである。 日本ユダヤ学会関西例会。これは休む訳にはゆかない。 もう学会といえば、これしか入っていないのである。 これをさぼるようになったら、も
水曜日は鶴澤寛也さんの講演とワークショップ。 寛也さんは今年の4月のアートマネジメント副専攻のインターンシップの受け入れ先を矢内賢二さんに探してもらったときに、「渡りに船」というか「地獄で仏」というか、そういうタイミングでインターン生たちを受け容れてくださった方である。 当日、私は別の仕事があって、打ち上げの席に後から参加して、そのときはじめてお目にかかったのである。 江戸前の、まことに粋な方で、私は衝撃のあまりブログ日記に「玲瓏なる美女」と、ふだんあまり用いない形容詞を動員したほどであった。 そのときに、今度『考える人』のインタビューに出てくださいとお願いしたらご快諾いただき、『考える人』のときには、今度大学に来てワークショップしてくださいとお願いしたらご快諾いただき・・・というふうに「とんとん」と話がまとまってその日を迎えたのである。 ワークショップにはもう少し学生たちが集まってくれる
教育関係の取材がある。 学生や若いサラリーマンたちにどうやってコミュニケーション能力をつけたらよろしいのかというテーマである。 別に起死回生の妙手というのはありませんとお答えする。 そう答えたら、片づかない顔をしていた。 誰でもすぐにできるような妙手があれば苦労はない。 コミュニケーション能力というは平たく言えば「生きる力」ということである。 そのようなものを汎用的教育プログラムとして「はいよ」とご提案することは誰にもできない。 ときどき「これさえやればコミュニケーション能力が一気に身につきます」というような「はいよ」本を書いている人がいるが、そういう本を書いている人を信用してはならない。 「信用できる人間」かそうでないかをみきわめるのは「生きる力」のもっとも基礎的なもののひとつであり、このような本を手にとってふらふらと買ってしまう人は、その一点においてすでに「生きる力」の伸びしろが少ない
朝日新聞のイシカワ記者が取材に来る。 真珠湾攻撃について歴史的検証を行うという趣向である。 朝日新聞と日本経済新聞には、前に原稿にアヤをつけられて「二度と書きません」と啖呵を切ったはずなのだが、違う部署の知らない記者から寄稿を頼まれると、因縁があったことをころりと忘れて「はいはい」と即答してしまう。 原稿を書いたあとになって「あ、いけね。朝日と日経には書かないことにしてたんだ」と思い出す、ということを何度か繰り返している。 困ったものである。 朝日と日経に書かないことにしたのは、この二紙のデスクが私の原稿に「書き直し」を要求したからである。 朝日は原稿を送る前に「社の方針に合わない内容なら書き直しを要求します」と言われた。日経は原稿を送ったあとに「・・・である」という断定を「・・・であると思う」(だか「・・・だと言われている」)に直せと言われた。 私はべつに両紙の社説を書いているわけではな
東京ツァー中。 大学での会議を終えて、ばたばたと新幹線に乗って東京は飯田橋の角川書店へ。 中沢新一さんとの対談シリーズの3回目。 「くくのち学舎」のキックオフイベント、神戸女学院大学の大学祭でのトークセッションに続いての短期集中おしゃべり企画。 新幹線車中で、中沢さんの最新作『純粋な自然の贈与』を読む。 じつにわかりやすい、よい本である。 「交換と贈与」という古典的な人類学のテーマが、(重農主義の再評価という)新しい視点から論じられている。 商業というのは本質的に等価交換であり、そこからは何も富は生み出されない。重農主義者たちはそう考えた。 「『純粋の商業は・・・等しい価値と価値との交換にすぎず、これらの価値にかんしては、契約者どうしの間には、損失も儲けもない。』なぜなら、『交換は何ものをも生産せず、つねにひとつの価値と等しい価値の富との交換があるだけで、その結果真の富の増加はありえない』
07年度の全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)と1964年度の全国テストを社会環境を加えて分析したところ、学力を左右する要因として離婚率・持ち家率・不登校率の3指標の比重が高まっていることが、大阪大などの研究グループの調査でわかった。 いずれも、家庭、地域、学校での人間関係の緊密さに関する指標で、研究チームは「年収などの経済的要因よりも、人間関係の『つながり格差』が学力を左右する傾向にある」と指摘。(毎日新聞、11月17日朝刊) ひさしく「学力格差は経済格差」であると言われてきた。 金持ちの子どもは「教育投資」額が貧乏人の子どもよりも大であるので、学力が高いというのである。 この「要するにすべては金の問題だ」という薄っぺらなリアリズムに過去20年ほど私たちの教育論は振り回されてきた。 それによって、学力のない子どもたちは「自分たちは学力がないのではなく、端的に金がないのだ」というふうに
『日本辺境論』の販促活動が始まっている。 昨日、梅田の紀伊國屋書店を覗いたら、入り口のところに特設のトレーが作ってあって、『街場の教育論』や『下流志向』や『私家版・ユダヤ文化論』も並べてあった。 文楽劇場での幕間でも、POP をたくさん書かされた。 「読んでね」とか「面白いよ」とかいう、まったく知性の片鱗も感じられない惹句であるが、読んでもらわないと話にならないのであるから、とりあえずは読者のみなさまのご厚意に取りすがるのである。 今のところ寄せられた感想にはどれも好意的で、まずは一安心。 もちろん、これからさき関係各方面から怒濤のような批判が寄せられることは避けがたいのであるが、批判に反批判を加えて、泥沼の論戦に・・・ということは私の場合にはありえない。 それは「論争」というものが生産的になることはない、というのが「文科系」の学問の宿命だからであるからである。 どこまでもやってゆくと、最
ああ〜授業をさぼって。日のあたる場所に、いたんだよ。 というのは嘘で、授業はさぼったけれど、行った先は近畿大学文芸学部の教室である。 私は原則として自分の授業を休んで、学外の仕事をするということはしないのであるが、どういうわけだかこの仕事は引き受けてしまった。 引き受けたときにどういう経緯があったのか、遠い昔のことなので、覚えていない。 だが、約束した以上は行かねばならぬ。 讀賣新聞と近畿大学のジョイントのイベントで、お世話いただいた讀賣の山内さんと文芸学部の浅野洋・佐藤秀明両先生にご挨拶。 お題は「教養なき時代の読書」。 そういうテーマならお話しすることはある。 こういうときに「教養とは何か?」という問いかけから入るのが常道であるが、それをするのはシロート。 こういう場合はむしろその語の一義的意味について合意されていると信じられているキーワードについて、「その定義でよろしいのか?」と一段
土曜日は指定校推薦入試。 指定校推薦の応募状況は堅調である。 ありがたいことである。 つねづね申し上げている通り、本学のような規模の大学の場合には、120万人の高校生のうちの600人くらいが「行きたい」と行ってくれれば、それで教育活動を継続できる。それは志願者を「かき集める」必要がないということである。 必要なのは「旗幟を鮮明にする」ということである。 よその学校でもしていることをうちもしています。よその学校にある教科がうちでも学べます。よその学校で取れる資格がうちでもとれます・・・というようなタイプの「勧誘」をしているうちに、いったい私たちは「何をしたくて」そもそも大学をやっているのかという根本のところの動機がわからなくなってしまう。 うちでやっているようなことはうちでしかできません。 という自負が教育機関には絶対に必要である。 そうでなければ、その学校には存在理由がないからである。 「
月曜日。珍しく、ふつうの月曜。 朝、下川先生お稽古。昼の部長会がなくなったので、授業の時間まで家事(カレー作り)と原稿書き。 それからゼミ。杖道の稽古。 帰宅してカレーを食べて、寝ころんで『鴨川ホルモー』を見る。 最初は「大学実名」でわくわくしたけれど、CGが出てきてから、急速につまらなくなる。 日本映画はもうCGを使うのを止めなさい。 なんか「手抜き」という感じ。 山田孝之くんは『クローズzero』での怪演に比べると、ちょっとトーンダウン。栗山千明ちゃんも『キルビル』での怪演に比べると(比べるなよ)。 火曜日。世間はお休みであるが、われわれは教授会研修会。 学生たちの「こころのやまい」の現況と対応策についてのレクチャーとディスカッション。 境界性人格障害と発達障害について、専門家たちから貴重なインフォーメーションをいただく。 ぐったりして帰宅。しようと思ったが、そのあと中之島のリーガロイ
20世紀フランスを代表する思想家で社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースが10月30日、死去した。100歳。 第二次大戦中に亡命した米国で構造言語学を導入した新しい人類学の方法を着想、戦後フランスで実存主義と並ぶ思想的流行となった構造主義思想を開花させた。「未開社会」にも独自に発展した秩序や構造が見いだせることを主張し、西洋中心主義の抜本的な見直しを図ったことが最大の功績とされる。 サルコジ大統領は3日の声明で「あらゆる時代を通じて最も偉大な民族学者であり、疲れを知らない人文主義者だった」と哀悼の意を表した。 1908年11月28日、ブリュッセルのユダヤ人家庭に生まれた。パリ大学で法学、哲学を学び、高校教師を務めた後、35年から3年間、サンパウロ大学教授としてインディオ社会を調査。41〜44年にナチスの迫害を逃れて米国に亡命、49年の論文「親族の基本構造」で構造人類学を樹立した。 自伝
今週も「週末」がない。 先週もなかった。来週もないし、再来週もない。 週末がないということは、ずっと働きづめということである。 そりゃ風邪も引きますよ。 なぜそのような非人間的日程を組むのかと気色ばまれる向きもあるやもしれぬが、講演の日程なんて、早いのは1年半くらい前に決まっているのである。 そのときはスケジュールは「まっしろ」であるから、「あ、いいすよ」と気楽に応じてしまう。 途中からだんだん顔色が悪くなってきて、講演も寄稿も取材も必死で断り始めるのだが、「これだけは断れない種類の仕事」が一番最後にやってきて、それが「ばりばり」と時空を引き裂き、気づくとスケジュール表は「まっくろ」になっているのである。 いまだって一番最後に来たのは「自分の書いた本の販促活動」である。 これはどうしたって断れない。 こんな生活をしていては長生きできないです。ほんとに。 今週の土曜日も合気道のお稽古を泣く泣
まだ風邪が癒えない。 鼻水がじゅるじゅる垂れて、ときどき咳き込むが、それ以外はまあ標準的である。 バジリコから『邪悪なものの鎮め方』の初校ゲラが出る。 タイトルはむかしの企画の流用だが、中身は「コンピレーション本」。 ただし今回は「霊」や「呪い」やその解除についての逸話が「狂言廻し」のような役割を果たして、テクストを繋いでいる。 自分でいうのもなんだけれど、たいへんに面白い。 ゲラを読み始めたら止まらなくなって、一気に読んでしまった。 これはやはり編集の妙というべきであろう。 読んでみてわかったのは、私が「同じ話」ばかりしているということである。 自分では気づかないのだが、たしかにブログには同じ話ばかり書いているようである。 注文原稿の場合は、同じ話の使い回しは原則的にはできない。 二重投稿というのは、プライオリティが重んじられる世界では禁忌だからである。 でも、ブログは別にそういう「しば
晴れて病気になれたので、やれうれしやと朝からパジャマでぐっすり寝ていると電話が鳴る。 なんじゃいといささかトンガッた気分になって起き出して「はい」と最大限の不機嫌さで電話口に出ると、朝日新聞である。 26日に鳩山首相の所信表明演説があり、それについてコメントするという約束をしていたのである。 風邪にまぎれて忘れていた。 演説はプレスリリースが事前になされているので、その草稿をメールで送ってもらう。 パジャマの上にダウンベストを羽織って、げほげほと咳き込みながら草稿を読み、1000字コメントを書く。 演説はかなり修辞上に工夫が見られる。 なかなか言語感覚のよいスピーチライターがいる。 「友愛」というのが鳩山首相の政治哲学の根本概念のようであるが、「友愛」というのはどちらかというと空想社会主義者の用語である。 私は科学的社会主義者よりも実は空想的社会主義者の方が人間的には好きである。 例えば、
げほげほ。 ひさしぶりに風邪をひいてしまった。 一昨日、ふと「そういえばこのところ風邪をひかないなあ」と思ったのである。 「私は風邪をひかない」と自慢すると、必ずそのあと大風邪をひくというジンクスがあるので、そのときも心に思っただけで口には出さなかったのであるが、思っただけで罰が当たり、その日の夜からのどが痛くなってきた。 困ったことに翌日は大学祭の初日で、演武会と中沢新一さんとのトークセッションが予定されているのである。 朝、目が覚めるともういけない。 鼻が詰まり、のどが痛み、微熱があって、身体がだるい。 終日ごろ寝をしていなさいと身体が指示しているのだが、そうもゆかず、怠け心(というか健康志向)を抑圧して、改源を飲んで大学へ。 演武会の方はもう手順がわかっているから、私がいなくてもてきぱきと準備が進んでおり、私はただ「じゃ、始めようか」とキューを出すだけ。 出場者も少ないので、さくさく
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