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歴史に関するsoylent_greenのブックマーク (181)

  • 西暦1年は閏年か? - プログラマーの脳みそ

    閏年(うるうどし)の話題。 Twitterで見かけた話題で「西暦1年は閏年かどうかぱっとわからん人おる?」という些か煽り気味のツイートを見かけたのだけども、反射的に「閏年じゃないに決まってるじゃん」とぱっと答えてしまわないだろうか。当にそうだろうか? そう単純な話なのだろうか? プログラミングを学んでカレンダーを扱うことを学ぶ際に置閏法についても簡単に触れられることがある。置閏法というのは閏年や閏月(太陰暦では1年が13ヵ月になるケースがあり追加の月を閏月と呼ぶ)をどのようなルールで挿入するかという話で、まさにアルゴリズムであるからプログラミングの話題と相性がいい。 置閏法 現代の西暦の置閏法(ちじゅんほう)は 西暦を 400 で割り切れる年は閏年 上記以外で西暦を 100 で割り切れる年は平年 上記以外で西暦を 4 で割り切れる年は閏年 上記以外は平年 といった手続きで閏年(つまり2月

    西暦1年は閏年か? - プログラマーの脳みそ
  • 記憶の扉

    今回の東日大震災におきまして、犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。 被害にあわれました皆様には心よりお見舞い申し上げます。 こんな時こそ前向きな希望のもてるテーマをご紹介していければいいのですが、 まだまだその様な気分にも慣れず、ご訪問頂いた皆様には大変申し訳ございませんが、 暫く情勢が落ち着くまで当ブログはお休みする事に致しました事をご了承下さる事をお願い申し上げます。 一刻も早く被害に遭われてる方が救助される事を心よりお祈り申し上げます。 テーマ:銀塩写真 - ジャンル:写真 2011/03/13(日) 22:00:55| 1957年 | トラックバック:0 | コメント:3 おそらく高山市の何処かの会館で開かれた秋の展覧会でのスナップ写真だと思います。 以前御紹介しました写真雑誌の入選作二点と二科展に出品して初入選「馬」の作品の前での記念撮影、少し自慢げな父の様子が窺え

  • 廃仏毀釈の跡に見る美 鹿児島の廃寺跡を探し歩く写真家・川田達也さん - 鹿児島フリーライターのブログ

    人知れず埋もれゆく鹿児島の廃寺跡を探し歩き、撮影し続ける人がいる。 幕末から明治にかけて行われた廃仏毀釈。これにより鹿児島から寺が消滅した。 かつての古寺跡の一部は史跡や神社になっているが、ほとんどの跡地が一般の墓地となり、時代の流れで人々から忘れられつつある。 写真家の川田達也さんは、そんなかつての廃寺跡を巡ってブログ「薩摩旧跡巡礼」に記録を残し続けている。 川田さんの撮影する廃寺跡は、静謐な美しさが漂う。 雪の福昌寺跡の景色は大変美しいものでした。境内は静寂に包まれ、現代文明の音は聞こえません。音といえば雪の降る音や風の音、木から雪が落ちる音、自分の足跡のみ。カメラのシャッター音だけが現代文明を思い出させます。―「薩摩旧跡巡礼」福昌寺雪景より 昔はこの一帯全てが岩屋寺境内であったそうです。大伽藍は姿を消しましたが、お寺の荘厳な空気は全く失われていません。今まで訪れた廃寺跡の中で随一の空

    廃仏毀釈の跡に見る美 鹿児島の廃寺跡を探し歩く写真家・川田達也さん - 鹿児島フリーライターのブログ
    soylent_green
    soylent_green 2020/08/13
    廃仏毀釈で消えた千を超える寺の跡地をたどる
  • Amazon.co.jp: 戦時体制下日本の女性団体: 胡澎 (著), 莊嚴 (翻訳): 本

  • 教科書から消えた風刺狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰」、黒船来航直後のものと裏付ける書簡発見 | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞

    ペリー艦隊の黒船が横須賀・浦賀沖に来航した嘉永6(1853)年6月当時の江戸幕府の混乱ぶりを風刺した狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たった四はいで夜も寝られず」が、黒船来航直後に詠まれたことを示す書簡がこのほど、東京都内で見つかった。この狂歌は関連史料が明治時代までしか、さかのぼれなかったことから「明治人の作ではないか」との説が10年ほど前から出され、最近ではほとんどの教科書から消えていた。発見者は、新史料によって旧来の説が正しかったことが裏付けられたとしている。 発見したのは元専修大講師で横須賀開国史研究会特別研究員の斎藤純さん(62)。同研究会が編集し、横須賀市が発行する研究誌「開国史研究第10号」で経緯を報告している。 それによると、書簡は1853年6月30日付で日橋の書店主山城屋佐兵衛が常陸土浦(茨城県)の国学者色川三中(みなか)にあてたもの。異国船(黒船)の件で

    教科書から消えた風刺狂歌「泰平の眠りを覚ます上喜撰」、黒船来航直後のものと裏付ける書簡発見 | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞
    soylent_green
    soylent_green 2020/05/20
    “書簡は1853年6月30日付で日本橋の書店主山城屋佐兵衛が常陸土浦(茨城県)の国学者色川三中(みなか)にあてたもの”
  • 水都を偲ぶ -暮らしを支えた河川と掘割-|東京クロニクル

    文・菅原 健二 すがわら けんじ 1952年北海道生まれ。東洋大学法学部卒業後、現職。 主な著書に『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』、『川の地図辞典〜多摩東部編〜』『川跡からたどる江戸・東京案内』などがある。 江戸から昭和にかけて、日橋・京橋界隈は、四方を川に囲まれた、まさに「水の都」であった。 江戸城建設、河岸など産業利用にはじまり、現在の水上観光利用まで、江戸東京のまちと、水辺の関わり方の変遷を追う。 東京駅八重洲口の東側、外堀通りの先にある街が八重洲、日橋、京橋だ。現在も再開発が進行中で、多くの高層ビルが連なる東京の中心地。今から約400年前のこの区域が、四方を川に囲まれた水の都・江戸の中心地だったとは想像できないかもしれない。しかし、この区域の南北を貫く通り町筋(※1)は江戸の商業活動の中心地として発展し、町人の生活・文化を代表する「まち」であったのだ。そしてその生活を、た

    水都を偲ぶ -暮らしを支えた河川と掘割-|東京クロニクル
    soylent_green
    soylent_green 2017/12/29
    江戸・東京の水運
  • 築城当時の江戸城の貴重な絵図を公開 | NHKニュース

    江戸時代初期に徳川家康が築城した江戸城の当時の構造を詳しく描いた貴重な絵図が19日から東京・千代田区で公開されています。 江戸城は改修が繰り返され、築城当時の詳細な姿はわかっていませんでしたが、この絵図には丸の石垣などが詳しく描かれ、出入り口を複雑な構造にして、守りを堅くしていることがうかがえるということです。 千代田区文化振興課の後藤宏樹さんは「関ヶ原の戦いのあと、まだ大阪に豊臣家が存在しているころに、家康が石垣といった西日の築城技術を取り込んで堅い守りで築いたことがわかる。今の東京の繁栄にもつながる貴重な絵図で多くの人に見てもらいたいです」と話していました。 会場にはこのほか、絵図が見つかった松江市にあり、おととし、国宝に指定された松江城天守のひな形模型などの資料も展示されています。 この展示会は11月19日まで東京・千代田区の日比谷図書文化館で公開されています。

    築城当時の江戸城の貴重な絵図を公開 | NHKニュース
  • 女の子がムラムラしてはいけないの? イギリス文学における女と性欲 - wezzy|ウェジー

  • 真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」

    ハフポスト日版ニュースエディター 特集「#だからひとりが好き」ディレクター News Editor, HuffPost Japan 7th December 1941: The USS Arizona sinking in a cloud of smoke after the Japanese attack on Pearl Harbor during World War II, Hawaii. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)

    真珠湾攻撃から75年、歴史家・加藤陽子氏は語る「太平洋戦争を回避する選択肢はたくさんあった」
  • 特集 さなイチ 別冊!インタビュー 時代考証 丸島和洋さん ~豊臣秀吉の残した遺言~|NHK大河ドラマ『真田丸』

    第31回「終焉(しゅうえん)」で描かれた『豊臣秀吉の遺言』をめぐる石田三成と徳川家康との攻防。その真実、そして、制作舞台裏について、『真田丸』で時代考証を担当していただいている国文学研究資料館特定研究員・丸島和洋先生にお話をうかがいました。 Q.秀吉の遺言って、物が残っているんですよね?! 豊臣秀吉の遺言に関する文書は、主要なものとして現在3点が残されています。ところが、互いの内容にちょっとズレがあるとされています。そこで、そのズレをお芝居にしたいと、プロデューサーの吉川さんから相談を受けました。 Q.残されている3点とは、どのような文書なのでしょうか? まず1点目は、五大老の一角であった毛利家の文書に残されているもので、秀吉の自筆の遺言状の写しです。今回ドラマで取り上げられているのはこの遺言状で、史料に基づいて、再現していただいています。 次に2点目は、五奉行の一角であった浅野家に伝わ

    特集 さなイチ 別冊!インタビュー 時代考証 丸島和洋さん ~豊臣秀吉の残した遺言~|NHK大河ドラマ『真田丸』
    soylent_green
    soylent_green 2016/08/08
    “実は戦国時代から江戸初期にかけては、偉い人に関しては本名で呼んだ方が丁寧”
  • 知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史~芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった!(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

    知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史~芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった! 戦争・麻薬・カネ 文/辻田真佐憲(近現代史研究者) 芸能界の薬物汚染と太平洋戦争 近年、有名人の薬物事件があとを絶たないが、これは何もいまにはじまったことではない。歴史を振り返れば、太平洋戦争の敗戦直後から、芸能界に薬物汚染は広まっていた。当時よく使われたのは覚醒剤、いわゆる「ヒロポン」である。 漫才師で、のちに参議院議員に転身した下村泰は、1984年6月の国会質疑において、ヒロポン中毒に陥った歌手たちの奇行を、次のように赤裸々に証言している。 いわく、楠木繁夫は、ギャラの契約をせず、「ヒロポンを一升瓶で何くれたら幾日間行く」といって仕事をしていた。 いわく、霧島昇は、ヒロポン中毒が進み、1曲歌っては「幕を閉める」といったり、アンコールまでいっているのに「アンコールまだだ」といったりして、司会の自分

    知られざる「麻薬大国」ニッポンの裏面史~芸能界「薬物汚染」の源流はこんなところにあった!(辻田 真佐憲) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
  • 家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13>  : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)

    家康の人物像を象徴する「しかみ像」は三方原の敗戦とは無関係なのか(「徳川家康三方ヶ原戦役画像」を模写、絵・富永商太) 徳川家康は、派手好きな織田信長や豊臣秀吉とは違って、地味で我慢強いという人物評が一般的だろう。 城郭考古学が専門の千田嘉博・奈良大学長と全国の家康に関係した地を歩くうちに、当に家康はそんな人物だったのだろうかと疑問に思うことがあった。例えば、秀吉政権の「首都」だった伏見城(京都市)城下にある御香宮(ごこうのみや)神社に晩年の1605年に家康が建てた殿(重要文化財)は非常に派手な極彩色で、「これが家康の趣味なのか」と驚いた。 ◎嫁入り道具と判明 我慢強い家康像として、近年、テレビドラマやマンガなどだけでなく、学術書にも取り上げられているのが、徳川美術館(名古屋市)が所蔵する「徳川家康三方ヶ原戦役画像」、通称「しかみ像」だ。 1572年に武田信玄に三方原(みかたがはら)で大

    家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13>  : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
  • 借金は返された? 大同生命所蔵の新撰組借用書 - もっと知りたい広岡浅子 | 大同生命の源流

    広岡浅子と彼女が嫁いだ加島屋に関する歴史的資料を一般公開している、大同生命大阪社(大阪市西区)の特別展示。年七月にリニューアルオープンし、たいへん好評を博していますが、特に来館者の方に注目されている展示品の一つに「新撰組借用書」があります。 「預申金子之事あずかりもうすきんすのこと」と書かれたこの文書は、金四百両(現在の貨幣価値で約二千万円)を月四朱つきよんしゅ(〇・四%)の利息で借り、翌年五月までに返済するという内容の証文です。 借用主として署名しているのは、「新撰組鬼の副長」と呼ばれた土方歳三ひじかたとしぞう、また、保証人として局長の近藤勇こんどういさみも署名・押印しています。

    借金は返された? 大同生命所蔵の新撰組借用書 - もっと知りたい広岡浅子 | 大同生命の源流
  • 昔の漁師が全裸で町を歩いていた理由 - 御光堂世界~Pulinの日記

    昔(昭和戦前頃まで)の漁師は全裸で作業したり町中を歩いたりしていた。自分は、それは粋や伊達でそうしていたものだと思っていた。(注1) だが、それだけではなかったことが、 @bandy_u バンディー http://twitter.com/#!/bandy_u 氏の調査結果で明らかになった。以下引用。 藁チン文化についてちょろっと調べてる。思った以上に奥深くて、ちょっと窮屈な感じ。 なんで全裸でチンポに藁1結んだだけの姿で漁に出たり、ましてや街中を歩くのか理解できなかったけど、「着る服を持つような身分不相応なことはしておりません」という低い身分、隷属的な立場の表明だったんだ。 勝手に網子(どこかの網元の下で働いている漁師)が、勝手に褌だの半纏だのを着て町を歩こうものなら、それは「許されざる行為」だったらしい。全裸でいるべき身分の人間が服を着て町を歩いたり電車に乗ったりしようものなら、警官か

    昔の漁師が全裸で町を歩いていた理由 - 御光堂世界~Pulinの日記
  • きものを「貴族の文化」にしたのは何か - ohnosakiko’s blog

    英国人の日文化論が「正しすぎる」「ぐぅの音も出ない」と話題に - with news(ウィズニュース) タイトルがちょっと煽り過ぎというか大袈裟に感じるが、小西美術工藝社のデービッド・アトキンソン社長という日文化に詳しいイギリス人が、きものの価格の高さについて苦言を呈している内容。以下は最後のところ。 そもそも伝統が伝統になる前は、ちゃんとビジネスになっていたはずなんです。消費者の意向を探り、自ら変わり続けた。だから伝統になれた。着物が存続するためには、真っ当なビジネスにするしかありません。もっと価格を下げて、手に取りやすい着物を増やす取り組みが、最低限必要だと思います。 最近またちょっとしたきもの流行りで、若い人向けの雑誌も出て、気軽にきものを楽しめるよう様々な提案がされていたり、手にしやすい価格帯のきものが売られていたりするが、街を歩いていて頻繁にきもの姿を見るところまでは行ってい

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  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 日本に宦官制度のない理由

    中国において宦官は商(殷)の時代に起源を求める事が出来るのですが、日において商代との類似点を持つ古代社会(大和朝廷)では、異民族との幅の広い接触、征服という事実はなく(朝鮮半島南部との関係は対異民族的性質のものであったとは言えない)、また、日では地形的な理由により、騎兵というものが発達せず、そのため明治初期まで馬に去勢を行うという習慣がありませんでした。つまり、奴隷や異民族を去勢して使うという発想がなく、結局、日の自然環境が島国であった事が宦官を作らなかった最大の理由と考えられます。 また、日は唐代にさかんに大陸文化を輸入しましたが、何故か宦官制度を輸入しませんでした。これは「必要がなかった(知らなかった)」からだと思われます。中国での宦官の存在理由の一つに、中国人の嫉妬深さから来る「後宮の純潔を守るため」、「内廷の運用のため」、「刑罰として宮刑があったため」などが挙げられますが、

  • 「ごちそうさん」で悠太郎の逮捕はなぜ?「爆弾は当たらない」などの宣伝で犠牲者を増やした歴史を直視(水島宏明) - 個人 - Yahoo!ニュース

    今週のNHK連続テレビ小説「ごちそうさん」。 戦時体制での政府や軍の愚かさや非情さを克明に描いている。今週始めのドラマでは、戦時中に流れていたラジオ放送が登場したが、当時は実際にこんな放送が行われていた。 「空襲はさほど恐ろしいものではないと?」 「そうです。爆弾というものはそれほど当たるものではありません。むしろ防空活動をおろそかにして街を焼けるにまかせる方が恐ろしい。敵の思うツボですから」 東京を始めとする大空襲で大勢の市民が犠牲になった背景に、当時の政府による「無謀な」指示や指導があったことをうかがわせる。 今週の「ごちそうさん」は、実はテレビドラマの歴史上で画期的なものだといえる。 戦時中の政府や軍による「愚かな政策」によって、空襲における市民の犠牲者が膨大になってしまったという過去の歴史を直視し、空襲における国などの無策をこれほど明確に示したことはテレビドラマではかつてない。 「

    「ごちそうさん」で悠太郎の逮捕はなぜ?「爆弾は当たらない」などの宣伝で犠牲者を増やした歴史を直視(水島宏明) - 個人 - Yahoo!ニュース
  • 『日本人はなぜ謝りつづけるのか』 - H-Yamaguchi.net

    中尾知代著『日人はなぜ謝りつづけるのか―日英〈戦後和解〉の失敗に学ぶ』(NHK出版、2008年) ひとことでいうと、かなり読みにくいだ。文章が、ではなく、内容が。難しいことが書いてあるからではなく、なかなか受け入れにくい内容だから。ある意味、非常に感情を逆撫でされるだといえる。つい感情的に反発したくなる。たぶん、同様に感じる人は多いだろう。だが、というか、だからこそ、このは読まれるべきだ。そうだそうだと膝を打つ人だけではなく、なんだこれはと腹を立てる人にも。 実際、私もうんうん苦しみながら読んだ。内容てんこ盛りで消化しにくいのもさることながら、納得のいかない部分が多々あってつっこみを入れたくなる。読み終わって「あーすっきり」というではない。でも読み終わってつらつら考えているうちに「ああそういうことか」という感じになってくる。そういうだ。以下、感想文。 著者は、第二次大戦時の捕虜

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    織田信長 ぼちぼち、元気にやっています。少し薬にも慣れた...んかなぁ。相変わらずべられないけど。朝、指がこわばって文字なんて入力できなかったけど、それはほぼなくなった。関節もどこも痛くない。薬効いてきたんやろな。 で、ブログを書こうと言う気がまた起きてきた。 …

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    soylent_green
    soylent_green 2013/08/13
    見てから読む… いやいつ見るんだ