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bakuhatugoroに関するsphynxのブックマーク (44)

  • ジャクソン・ブラウン&デヴィッド・リンドレー『LOVE IS STRANGE』 - ぼうふら漂遊日記

    高校を出て、地元の県庁所在地に風呂なし四畳半の部屋を借り、フリーターやりながらバンドをやってた頃、キングビスケットレコードという、6、70年代ロックやソウル、ブルース、オールディーズポップスを中心にした品揃えの中古レコード屋によく通っていた。 店主のおじさん(といっても、今の自分よりも若かったはず…)はザ・バンドをこよなく愛するサザンロック、スワンプロックのファンで、大抵いつ行ってもうるさ方の常連客と話し込んでいた。 そんな客の一人に、たぶん若い頃激しい気持ちでロックにのめり込んで、楽な生き筋を踏み外したのだろう(と、20歳そこそこのヤングからは見えた)、小柄で細身な労務者風のおじさん(といってもおそらく30そこそこ…)がいた。 日々の疲れと不満と、ディープな音楽ファンとしての自負とを同時に漂わせ、険のある早口で自意識過剰気味に喋る彼は、おそらく背伸びして渋い音楽を勉強中の若造のことなど、

    ジャクソン・ブラウン&デヴィッド・リンドレー『LOVE IS STRANGE』 - ぼうふら漂遊日記
  • 『ばらの坂道』ジョージ秋山 - ぼうふら漂遊日記

    『ばらの坂道』を、とうとう読むことが出来た。 70年代初頭のジョージ秋山が『アシュラ』『銭ゲバ』と問題作を連発し、メタフィクション的な『告白』を最後に突然マンガ家を引退、失踪した数ヵ月後、発表された復帰作。 何としても読みたいと思いながら、現在では差別表現とされる単語が多用されている関係で復刊は困難と言われ、全3巻で最低でも2〜3万の古書価格。恥ずかしながら、なかなか手が出なかった。 大西祥平さんと青林工藝舎さんには当に感謝。 遺伝性の狂気を持つ母と、優しいが気弱でだらしなく、子から逃げ他の女の元に去った父の間に生まれるという、大きな業と哀しみを背負った少年の物語。 彼は抱える哀しみの大きさ故に、「誰もが平等な理想の村を作る」という、大きな仕事を成し遂げようとする。 が、自分に纏わる人々の哀しみをやり過ごすことができず、達観して自分の仕事に打ち込むことができない。 こどもならだいてやる

    『ばらの坂道』ジョージ秋山 - ぼうふら漂遊日記
  • 2011-04-19

    僕は、どちらかというと保守的な人間(政治的に保守というよりも、単に性根が古いタイプの人間)だから、政治的な主義主張の内容以上に、それを主張する上での振舞い方が気になる。 そして、その振舞い方こそが、思想であり文化だと思っている。 どれだけ立派なことを言っていようが、その人の口調や表情、振舞いを醜いと感じれば、信頼する気持ちにはなれない。 だから、普段の人間関係も、仕事で書く文章も(あるいは、こうしてプライベートで書くものも含めて)、そこへのこだわりが軸になる。 先日の、いきものがかり・水野さんへの悪罵に対する批判も、原発の是非以前に、自分と意見が異なる者、あるいは物の感じ方や行動の仕方に距離のある物を「敵」と見做し、矮小にレッテリングした上で、容赦なく悪罵を投げつける態度を、醜い振舞いだと思ったから書いた。 そうした卑怯な振舞いを、「自分は正しい側にいるのだから」「相手は(無自覚にも)それ

    2011-04-19
  • 2011-04-13

    まぁ、びくびくして言えないのもなんか違う気がするしな。昨日はそれでもんもんとしていたけど。俺は斉藤和義さんの音楽が大好きだけど、「ずっとウソだった」は大嫌いだよ。 自分の主張を保身することなく自分の方法論でまっすぐに発信するという行為に対する賞賛と、主張そのものに対する是非は、別に議論されるべきことなんじゃないかなと、僕は感じているんです。その混同は、いたずらに”正義”を生むだけなんじゃないかなと。すみません、まだ整理できていません。 (1)そもそも僕は音楽政治的な主張、姿勢(斉藤さんの場合は、怒りでしたが)を直接的に乗せることについて、とても懐疑的な人間です。 (2)いや、もちろんそもそもある一定の範囲の音楽が、政治的な主張とともに成り立ってきたというのは頭では理解していますし、自分が作った曲も、すごく広範な視点で見れば、それらと同類の恣意性を放ってしまうということからは逃れられません

    2011-04-13
  • 震災後感じたネットの問題点 「慌てて買い溜めちゃった」と呟けない空気こそ、最もまずい「同調圧力」なのでは? - ぼうふら漂遊日記

    地震と津波、そして原発事故から3週間あまりが過ぎた。 地震直後の周囲の様子や報道、自分の行動や心の動きなどを記録しておきたいと思うのだけれど、命にかかわる緊急事態なのかそうでもないのか、もっと心配すべきなのか逆に心配し過ぎなのか、状況が二転三転し、情報や提言も錯綜している状態が続き、なかなか纏まらない。 また、多くの人が哀しみや不安の中に居る時、自分のそうした不安定な気持ちを、みだりに表に出すことは控えたいとも思い、まとまった日記はUPしなかった。ツイッターでも、そうした呟きは極力抑えて、普段より3割増しくらい柔らかめの言動を心がけようと思った。 ただ、もう少し状況が落ち着いたら、この間の自分の揺れや心の動きを、極力正直に記録しておきたいと思った。経験値を超えた事態の中で、何かを素早く判断すること(あるいは、慎重に判断を保留すること)が自分にとって、或いは誰にとっても当に難しいことを、今

    震災後感じたネットの問題点 「慌てて買い溜めちゃった」と呟けない空気こそ、最もまずい「同調圧力」なのでは? - ぼうふら漂遊日記
  • 武田泰淳の回想する関東大震災の一面 - ぼうふら漂遊日記

    東大震災の日、大揺れや、揺れ返しや、小刻みの振動が続いたあと、寺の周辺の家々からは、思いがけないほど、沢山の大人や子供があらわれてきた。いつもは姿を見せぬ老人や病人が、はじめて陽の光を受けたようによろめき出てきたり、戸板にかつがれて、眼をつむったまま出てきた。同一の災害のもとに、皆が親しげにしていた。八百屋さんは急に気前がよくなり、店の品物を分かち与えた。誰でもが自分より少しでも気の毒な人を手助けしようとした。口を利いたこともない大人たちは、まるで百年の知己のように語り合った。感じのわるい奴、なじめない奴、よそよそしい奴だったはずの「近所の住民」が、キリスト教的な愛に結ばれた、よき隣人として心が通じ合える。映画「日沈没」で、ただ一つ不満なのは、突如として発生する災害にさいしては、人間同士が突如として親愛の念を抱き、それを身を持って示すこともあり得ることが描かれていないことである。 武田

    武田泰淳の回想する関東大震災の一面 - ぼうふら漂遊日記
  • 『時にはいっしょに』(86年 脚本 山田太一) - ぼうふら漂遊日記

    先週から今週にかけて、CSフジテレビtwoで連日放映してる山田太一86年の連ドラ『時にはいっしょに』を見ていた。細川俊之の父親と伊藤ゆかりの母親に、南野陽子と角田英介の姉弟。大学助教授と専業主婦の家庭の離婚話。 マンガみたいにダンディな風体の細川俊之だから、却って現実の恋愛の場での小心な保身や、家庭での取り繕いの狡さ、情けなさが際立つ。 角田英介は松田洋治系の僕ちゃん感が絶妙に気恥ずかしい良い芝居(永瀬正敏も同系統の芝居で、南野のストーカー化した同級生役がはまってた)。夏休み、レンタルビデオ屋通いで仲良くなったバイトの洞口依子を、留守中の家に上げてシャワーを貸すと、調度折悪く、父とアパート暮らしを始めたばかりの姉と鉢合わせになる…といった、いたたまれない場面が続出。 一見しっかり者な優等生の南野陽子は、実はちょっと軟派者風の先輩坂上忍に片想いしているが、坂上はなんと胴口と付き合い始めてしま

    『時にはいっしょに』(86年 脚本 山田太一) - ぼうふら漂遊日記
  • 山田太一『遠まわりの雨』 - ぼうふら漂遊日記

    昨年3月に放映された山田太一最新の単発ドラマ『遠まわりの雨』を観た。 蒲田で町工場を経営している岸谷五朗と夏川結衣の夫婦。 岸谷は手仕事で金属を自在に加工できる、ヘラ絞りの優秀な職人だが、製造業の衰退で工場はギリギリの経営状態。 そんな時、海外から発注を受ける。これで何とか持ち直すかもしれない。 しかし、喜んだ矢先、岸谷は脳卒中で倒れてしまう。 切羽詰まった夏川は、20年前この工場で岸谷と共に職人をしていた渡辺謙に助けを求める。 彼はかつて岸谷以上の腕を持ち、夏川が結婚する前彼女の恋人でもあった。そこに岸谷が割り込んだ。 結局夏川は、工場の跡取りだった岸谷を選び、渡辺は黙って工場を去った。 渡辺は前橋に移り、へら絞りを続けていたが会社が倒産。お情けで系列のホームセンターに雇われ、慣れない販売をしている。 彼の虚しさを反映してか、家庭も冷えている。 一度は「そんな余裕ない」と断るが、後日、彼

  • 2010年 私的ベストテン - ぼうふら漂遊日記

    毎年の恒例になっている、備忘録兼ねた私的オールジャンルベストテン。 コメントが途中ですが、残りは後ほど。 1位 『河童のクゥと夏休み』 今年公開の『カラフル』が好印象(特に、取り巻く日常の風景含めた地味な中学生男子2人の友情の描写が)だったので、公開時スルーしてしまっていた作を改めてDVD観賞。 正直、原恵一監督とは出会いが良くなかった。『クレヨンしんちゃん モーレツ!嵐を呼ぶオトナ帝国の逆襲』への、万博世代による手前味噌気味な過剰評価(半端に自己反省を装った世代的慣れ合いと、自分には映った)に微妙な反発があって、何となく遠ざけてしまっていた。つまらん雑音と予断に振り回されがちな己の小人ぶりを猛省します。 異った生き方や文化背景を持つ河童の子供(おそらく最後の生き残り)との出会いを通して、空気のように馴染み染まるだけの世間ではなく、互いの距離を含めて認め合う一対一の友情を知る物語。 生き

    2010年 私的ベストテン - ぼうふら漂遊日記
  • 『キック・アス』最高だった。 - ぼうふら漂遊日記

    『キック・アス』期待を大きく超えて素晴らしかった。 ダメ男のペーソス系青春映画と、荒唐無稽な劇画アクションヒーローものという、どちらにしろフォーマットが出来あがり過ぎて、自家中毒の臭みを引きずりがちなジャンル映画分の企画を、強引に一に纏めることで、現実との緊張関係を復活させて生々しく蘇らせた快作。 こうした所謂ボンクラ映画というのは、想定している客と作り手が初めからキャッキャ慣れ合ってる感じが伝わっちゃうと、「男ならもっとでかいものと戦えよ!」と、どうにも冷めてしまう。「正義」とか「ヒーロー」とか、ただ無邪気に信じるだけでは馬鹿馬鹿しくも、鼻持ちならなくもなるものを、根っこのところでは渇望し、信じたがっていることを、作り手が気で引き受けてなきゃ駄目(外からの茶化しに終わると、当人の臆病を露呈して小賢しいだけだ)。 かといって、ただストレートに真正面からリアルに向き合うと、当然ながら

    『キック・アス』最高だった。 - ぼうふら漂遊日記
  • 色川武大『文体についてかどうか分からない』について - ぼうふら漂遊日記

    この文章は、ワタナbシンゴさんhttp://twitter.com/shanti_aghylとのツイッターでの会話と、荻原魚雷さんのブログの文章「文壇高円寺 - 文化の基盤」http://gyorai.blogspot.com/ に触発される形で、半ば返信として書きました。 お二人の力を借りて、もやもや漠然と考えていたことが、取り敢えず形になった気がする。 「ひとつの、というより私の視点で、事物を眺めて見ると、大いそぎでそれを打ち消してみたくなる。考えてみると、私の視点といっても、それは比較的効果のある場所に固定し代表させただけのことで、他にないというわけではないし、それから、私の視点以外の場所も走り狂うように飛び廻らなければ、執着に付随する万般のものを逃がしてしまうぞという気にもなる。」 「といって突き崩していって、自分の眼を失ってしまえば、よりどころがなくなってしまう。」 「しかしなが

    色川武大『文体についてかどうか分からない』について - ぼうふら漂遊日記
  • 2010-12-04

    公開初日の水曜、アサイチで観てきた。 つい先日もNASAの地球外生命体(!?)に関する発表予告に興奮したけれど、あのヤマトが30年後(いや、四捨五入すればほとんど40年か…)実写で、それも時のトップスター達の出演によって映画化されていることが、当時夢中で観ていた僕らには(そして、大人になったらもうアニメなど観なくなる、観られなくなるんだろうと思っていた僕らには)、そのこと自体立派にSFだ。 そんな、リアルタイム世代で且つ、パート1原理主義者の自分が新作を腐すというのは、ON世代の爺さんが現在の野球にケチつけるように当たり前過ぎて恥ずかしいことだとも思うし、なるべく慎みたい。ともかく近年に無いくらい、この日を心待ちにして来たし、出来る限り虚心に、現在の技術で蘇ったヤマトとの再会を楽しむつもりで劇場に出かけた。 しかし、当に残念なことに、去年の復活篇に続き、ともかく上納金を納めてきた心持ちと

    2010-12-04
  • 2010-08-22

    『カラフル』、郊外のシネコンで、夏休みの中高生や親子連れに囲まれ、初日に観に行ってきた。 正直、前半の展開はちょっとぎこちなくてカッタルかったし、描かれ語られることに小さな疑問や違和感もいくつか感じた。必ずしも、疵瑕のない大傑作だとは思わない。けれど、それら一つ一つに引っかかりながら、こちらも真顔で何かを投げ返し、付け加えたくなるような、力のある映画だったと思う。 僕達自身を含めたこの世を見捨て、或いはこの世から見捨てられて、零れ落ちそうな子供に向かって、自分がささやかに積み重ねてきた時間から、それでも何かを示してみたい、何が示せるのか、身の丈ギリギリのところで足掻き考える熱が、静かに伝わる映画だった。 前半、記憶をリセットされてやり直しという設定は、他者不在で独りよがり(だからこそ平気にも見える)中坊の心境の暗喩だとは思うのだけれど、それにしても期間限定の他人事であるはずの母親の不倫や後

    2010-08-22
  • 2010-07-02

    https://twitter.com/hitokirigoro より。 初期ワンピースは、カラッと突き抜けたルフィのキャラクターを軸に、それぞれに弱さや理由を持つ連中が仲間になる過程(人情)を丁寧に描き、その上で自由の代償としての覚悟と矜持を示して、アンチロマンに自家中毒した8,90年代をひっくり返した傑作だった。松零士作品やガンバの冒険など、世界が狭くなると共に過去のものになっていた「冒険とロマン」を、物理的な距離の問題ではなく、「「理由」を恥じず「覚悟」で超えていく」という肝の部分をソリッドし、強調することで見事に蘇えらせた。→ 1,277,892,433,000.00 webから →「ウソップ編」「海上レストラン編」「チョッパー編」あたりは、常に読み次がれていくべき名エピソードだと思う。が、ワンピース当に輝いていたのはここまで。→ 1,277,892,511,000.00 w

    2010-07-02
  • 2010-06-29

    http://twitter.com/hitokirigoro より。 『ヒーローショー』傑作。それも監督の「芯」がすべて詰まった真の意味でのデビュー作『ガキ帝国』、そして「これぞ娯楽映画の王道」というべきキャリアの発展的集大成『パッチギ!』に次ぐ、新たなメルクマールと言って良い。しかも前者を貫く「若さの熱と心意気の賛歌」とは真逆の内容。 1:45 AM Jun 4th webから 『ヒーローショー』興行的に大苦戦している理由は良く分かる。というか、それは監督も覚悟の上だろう。(あらゆる意味で「娯楽」の要素を犠牲にしても)作られ、世に問われたことに意味がある「作家」の映画。 1:49 AM Jun 4th webから 『ヒーローショー』とは言え、自分は正直、テーマや筋立てそのものにはそれほど新味や驚きは感じなかった。ぶっちゃけて言えば、これは古谷実や『闇金ウシジマくん』が描いてきた、バブル

    2010-06-29
  • 『サマーウォーズ』と『息もできない』と家族について - ぼうふら漂遊日記

    『息もできない』について事のシーンを切り口に書かれていた感想http://bit.ly/cIxXcdが面白くて(この映画に関心ある方には、是非ご一読をお薦めします)、コメント欄でもやり取りをさせていただいたid:Kai1964さんが、最新のエントリーで『サマーウォーズ』について書かれている。http://bit.ly/bQOUPG こちらは僕とは感想、というよりも拘りの持ち方(の元になっている自分の家族に対する実感)の角度がかなり違っていて、その辺りをコメントさせていただいたら、かなり長文になってしまった。 自分の家族について詳述していないので、ちょっと概念的で意味の強い文章になっているとは思うけれど、こうした事情や実感はそれぞれで、自分のものが正しいとか普遍的であるとか主張しようという気持ちはまったくない。 ただ、これらの映画に自分が惹かれる理由の大元にある、最近の自分の家族への拘りや

    『サマーウォーズ』と『息もできない』と家族について - ぼうふら漂遊日記
  • 2010-04-04

    J:COMのオンデマンド放送で、『息もできない』2回目の観賞。 既に大筋を知った上でじっくり映画を味わってみて、あらためてはっきりとこの映画を好きだと思った。 ついでに、信頼する同業者の松田尚之さんの感想日記http://bit.ly/aMk4zFにコメントつけようとしたらどんどん長くなってしまい、結局日記にUPすることに。 自分はどうもこの種の、チンピラの暴力をリアリズムで描くような映画に対して固定観念のようなものがあって、実は初見の時には、作に少し戸惑いを感じていた。 生きてきた環境であれ自分自身の資質であれ、自分の意志でコントロールできないものに閉じ込められ、振り回されて自滅する(多くの場合、それを客観的に整理し説明する言葉や、そもそも伝えるべき他者や社会を持たない)人間を通して、僕らの社会が普段は洗練させた形で隠している、根的な人の業や原型のようなものを浮かび上がらせる効果を、

    2010-04-04
  • 町山×宇多丸『ハートロッカー』論争と、『息もできない』 - ぼうふら漂遊日記

    昨日の日記http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20100404で紹介した松田尚之さんhttp://d.hatena.ne.jp/border68/と、その後mixiのコメント欄でやり取りを続けていたところ、『息もできない』そのものから話が膨らんで、常々自分が漠然と感じていた昨今の映画批評、或いは社会批評に対する根的な違和感が、かなり鮮明に言葉になった気がする。 松田さんの許可を得て、ここに転載します。 (松田) あえて書かなかったんですが、やはり「竜二」を思い出してしまうところがありますよね。 私は竜二原理主義者なんですけど、あの作品独特のナルな感じ(にとれるもの。男の手前勝手の美学?)は激しい反発、嫌悪、嘲笑の対象になることもあるのだということを、映画好きの友人たちとの会話で痛感することも何度かありました(ショーケンの主題歌含め)。 私からすると、ヤン

    町山×宇多丸『ハートロッカー』論争と、『息もできない』 - ぼうふら漂遊日記
  • 息もできない - ぼうふら漂遊日記

    殺風景な路地裏風の坂道の途中ですれ違う、短髪ガニマタの与太者と、制服に野暮ったいピンクのカーデガンを羽織った女子高生。与太者が無造作に吐いた唾が、タイミング良く女子高生のネクタイに命中。向こうっ気の強い彼女は、悪びれない与太者にビンタを一発。与太者は躊躇うことなく彼女を拳で殴り付け、画面暗転… 予告編冒頭の、ヒリっと静謐で生々しい空気の出来あがり方に一発で掴まれ、ずっと公開を待ち遠しく思っていた。こんなことは当に久し振りだ。初期のたけし映画やガキ帝国を思わせるなんて世評も聞こえてきて、更に期待に拍車がかかった。 そして実際に観てみると、この世評の半分は正しいが、半分は不正確だと思った。 この映画には、初期北野作品のような、アイロニーやニヒリズムの影はまったく無い。 説明なしの唐突な暴力(現実)で観る者の常識や倫理を脅かし、ヒリヒリした刹那性そのものに焦点を絞るような、「引き算」のセンスで

    息もできない - ぼうふら漂遊日記
  • 『息もできない』感想追記 - ぼうふら漂遊日記

    http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20100324の追記 昨日の『息もできない』の感想、他の作品と並べて、この映画に足りないものばかりを並べたてるような、ちょっとアンバランスな文章になってしまった。 実はこの映画に距離が取れずに「照れている」のは、僕の方かもしれない。 恥ずかしげもなく言ってしまえば、僕はこの映画が全力で伝えようとしていることを、既に良く知っている。勿論、彼らのような苛烈な経験をしたわけではないし、彼らの思いは痛いほど伝わって来たけれど、決して驚いたり衝撃を受けたりはしなかった。 だから、技術やセンスの凄さを除けば、この映画の内容については、わざわざ書くべきことが自分には何もない。ただ「わかるよ」「俺はお前らのことを好きだ」という以外には。 そして同時に、かつては前だけを向くあまりに、そして現在は自分が贅沢になりすぎているために、恥ずかし

    『息もできない』感想追記 - ぼうふら漂遊日記