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批評に関するohnosakikoのブックマーク (17)

  • もうひとつの物語 ― 岡崎乾二郎「抽象の力」の余白に | REALKYOTO

    清水 穣 豊田市美術館のコレクションには、わずか一点しかアメリカの抽象表現主義が含まれていない。展は、そのコレクションの空白を、戦後アメリカで形成された美術史に染まっていない場所と見なし、そのディスクールのなかで単純化され忘却される以前、20世紀初頭のモダニズム発生期における「抽象の力」を再発見しつつ、その系譜を大西洋回り(欧→米)ではなく、ユーラシア→日経由太平洋という東回りでグローバルに辿ることで、戦前の日の豊かなモダニズム受容とその展開を詳らかにする展覧会である。 この展覧会の魅力が、非西洋圏で開花したオルタナティヴなモダニズムの再認識にあるだけなら、近年のテート・モダンの常設展示のように、欧米に偏らないグローバルな展示方式は常態となりつつある。また、そうした歴史再評価を超えて企画者の狙いが、モダニズムの読み変えにあるとしても、それが、「クレメント・グリーンバーグ」に代表される

  • 「芸術論の新たな転回 01 星野太(1):それでもなお、レトリックを──星野太『崇高の修辞学』をめぐって1」(Interview series by 池田剛介) - REALKYOTO

    インタビュー:星野太 聞き手:池田剛介 昨今の政治・社会状況の変化を受けてか、これまでのものとは視点を異にする言説が登場してきている。反知性主義がはびこり、「ポストトゥルース」などという新語が造られる時代には、どのような思考や態度が必要とされるのだろうか。現代の芸術や言説空間に新たな風を運ぶ書き手に話を聞くインタビューシリーズ。初回には、カント以来の「美学的崇高」ではない、もうひとつの「崇高」についての刺激的な書物を上梓した哲学者・美学者を迎えた。 池田 マルセル・デュシャンの《泉》が1917年の作品なので、今年はちょうどその100年後にあたります。周知のようにこれは、男性用便器に署名を書きつけて展示するというもので、20世紀美術に最も影響を与えた作品のひとつと言えるかと思います。いま世界各地で展開されている現代美術も、おおよそその延長線上にあると言えるでしょうが、ここから決定的に新しいも

  • 東浩紀さんによる『この世界の片隅に。』評から、アニメの背景の機能と柄谷行人の「風景の発見」との関係、アニメの本質についてつぶやきまとめ。

    東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma この世界の片隅に。見ました。大変よかったです。これこそがアニメーションというものなのだ、と思いました。また書きます。 2016-11-20 17:17:21 東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma 柄谷行人は「風景の発見」こそが近代文学の内面を作り出したと説いた。それを援用してみる。風景とは映像表現では背景である。アニメでは背景美術である。背景がリアリズムを志向し他方でキャラクターだけはデフォルメして描かれる、その二重性が広く受け入れたときアニメは「自然」なものに見える。 2016-11-20 22:18:41 東浩紀 Hiroki Azuma @hazuma しかしむろんその「自然」は欺瞞である。それは現実を覆い隠す欺瞞にすぎない。その点で「君の名は。」の「美しい」「リアル」な背景は欺瞞の完成である。他方で「この世界の片隅に」は

    東浩紀さんによる『この世界の片隅に。』評から、アニメの背景の機能と柄谷行人の「風景の発見」との関係、アニメの本質についてつぶやきまとめ。
  • 藤田直哉「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」を巡って

    「すばる」掲載の藤田直哉氏「前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題」を巡って、まとめ主にみつけられた範囲の応答を中心にまとめました。 ★基的に編集は閉め切っていますが、希望があれば検討の上対応します。 ★広範な議論になっておりますが、細部まで議論を採録できておりません。おおよそのアウトラインを示す意図で編集しています。 問題ありましたらご連絡ください。 ※別途「藤田直哉氏「前衛のゾンビたち―地域アートの諸問題」、演劇の問題として考えると」というまとめがあったようです。http://togetter.com/li/717032

    藤田直哉「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」を巡って
  • なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史

    信じられない話ですが、日では一時期、文学といえば私小説のことでした。 笑い事ではなく、その災禍はいまも希薄化しながら続いているとも言えます。 たとえば作家を〈自由業〉だと考える習慣は、この希薄化した災禍の一部です。 私小説に反対した後続の作家たちの作品も、読者にはほとんど私小説であるかのように、その生活の反映であるかのように読まれました。 では何故、私小説はそんなにも成功を収めたのでしょうか? それを知るには、日の近代文学の歴史を簡単におさらいする必要があります。 1.戯作者上がりの新聞記者 江戸時代を通じて、執筆専業でえたのは滝沢馬琴ひとりでした。 幕末~明治初期にかけて活躍した仮名垣魯文も、戯作者の兼業としては伝統的な売薬を営み、維新後は商品広告である「引札」の執筆で禄をはんでいました。 やがて日でも新聞という新しいメディアがはじまり、その会社員となり定収を得ることで魯文ははじ

    なぜ私小説は勝利したか?-3分でわかる身も蓋もない近代日本文学史
  • 『思い出のマーニー』米林作品の「反創造」姿勢とは

    以前、ブログ記事『借りぐらしのアリエッティ』 脅威!不毛の煉獄アニメーションを書き、かなり悪し様に言葉を尽くして、米林宏昌監督をののしった。そのくらい、米林監督の初監督作『借りぐらしのアリエッティ』のつまらなさというのは、人智を超えたものだった。 そもそも、テーマやストーリー以前に、何を見せたいのか、何を感じさせたいのかが不明瞭なほど、演出のレベルが低くセンスも無いために、作品としての体(てい)を成していなかった。 仮に、目一杯好意的に見て、スタジオジブリ作品で初監督を務めることのプレッシャーや現場の意思疎通不足、混乱などを加味しながら、演出の不備を最大限に看過し擁護するとしても、それでも最も失望し驚かされたのは、作品から感じられる個性や野心の欠如、創造性の欠如、知性や主義主張の欠如、ユーモアと観客へのサービス精神の徹底的な欠如という、あまりにも根的な資質や姿勢が欠如していたことであり、

    『思い出のマーニー』米林作品の「反創造」姿勢とは
  • “let it go”のアイロニー « SOUL for SALE

    映画評論ができるほど映画を見ているわけでもないし、その中でもディズニーなんてほぼ見たことがないわけだけれど、この2年はまったく映画なんて見る余裕もなかったわけだし、リハビリも兼ねて『アナと雪の女王』について書いてみようと思う。前評判だのYouTubeで展開されているプロモーション動画だので色々予習していったので、それほど意外ではなかったけれど、全体としてとにかくアイロニーに満ちた作品だなあというのが大枠の感想。 言われていたところだと、作で描かれているのは「王子様がお姫様を幸せにする」というテーマへのアンチテーゼということらしい。しかしながらこの解釈はあまりにも日的過ぎるという感じがする。例えば2007年の『魔法にかけられて』なんかの方が、明確にこうしたテーゼへのアンチになっているし(というより『魔法にかけられて』自体がディズニーの再帰的パロディなのだけど)、アメリカのメディア状況を考

    “let it go”のアイロニー « SOUL for SALE
    ohnosakiko
    ohnosakiko 2014/05/07
    >人と交わらずに孤立した心情を抱えた登場人物たちが「これでいいの」と自己肯定すればするほど、孤立を深め、自身を破滅に追いやっていく過程/そういう意味であの歌も無邪気に歌えないとうちのコメ欄にあった。
  • ラッセンとは誰の《自己批判self‐criticism》だったのか? : En-Soph

    【SBS読書会】第三十六回(2014/03/01) 日時:2014年3月1日(土) 18:00-20:00 場所:マイスペース 新宿区役所横店7号室 指定図書:【ラッセンとは何だったのか?消費とアートを越えた「先」】 ◆ 2014年3月1日土曜日、歌舞伎町の外れにある、反社会勢力と性風俗産業の人たちで賑わう路地の一角にあるルノアールの会議室で、SBSというおかしな名前の集団による読書会が開かれた。 ◆ 《SBS読書会(FBグループ…超絶賛参加者募集中》は、主にこのEn-Sophというウェブサイトで活動しているメンバーの知人友人etcなどが、事前に指定される一冊のに対して各自の感想や賞賛、罵倒等をああだのこうだの述べてはペチャクチャ(×2)やっている集まりで、SBSとはパッと聴き新しいカレー粉のような雰囲気でもあるのだけど当然ながら全く違っていて、それは【新宿文藝シンジケート】の略であり、

    ラッセンとは誰の《自己批判self‐criticism》だったのか? : En-Soph
  • アナタの悩みは「近代」特有の問題かもヨ?(永田洋子の話の続き) - kenzee観光第二レジャービル

    司会者「先週の永田洋子の話が結構なアクセスだったみたいよ。ユニークアクセス数で1万とか」 kenzee「エ?そんなんでよかったらもうちょっと続けようかナ? ザーっとした話だったので永田が「近代的で、進歩的な女性観をもっていた」みたいな話の「近代」とか「戦後民主主義的」ていうのがわかりにくい、という反応もあった。そこで「近代的な個人」ってなんだろう、みたいなトコからはじめたい。ここでは何度も取り上げるけど、「近代」の定義を柄谷行人「日近代文学の起源」(岩波現代文庫)に求めたい。このの要点を物凄く手短に言うと、「近代文学というものは昔から連綿と日文化の中で続いてきたと考えられているが、せいぜい明治期に発祥した、歴史の浅いカルチャーだ。特徴として、「内面」「心象風景」のような概念が発見された。ついでにルソーの告白録にアイデアを得た田山花袋「蒲団」のような「告白」という制度も開発される。そし

    アナタの悩みは「近代」特有の問題かもヨ?(永田洋子の話の続き) - kenzee観光第二レジャービル
  • 千葉雅也さん@masayachibaの「なぜ『ギャル男』や『ラッセン』などを批評の対象にしてきたのか?」

    千葉雅也 Masaya Chiba @masayachiba さて、僕がどうして「ギャル男」や「ラッセン」などを批評の対象にしてきたのか、という点について、誤解する人もいるようなので、これについてコメントしよう。 千葉雅也 Masaya Chiba @masayachiba 現代の批評をよく知らない人にも聞いてもらいたいのですが、現代の批評とは、少数の「当に美しいもの、かっこいいもの、おしゃれなもの」を見抜くことではありません。現代の批評とは、或る対象の構造を分析し、対象がどのように価値づけられるかの可能性を多面的に考察することです。 千葉雅也 Masaya Chiba @masayachiba 現代の批評では、「当にかっこいい、美しい、おしゃれなもの」を「真に」選択可能であるとは考えません。対象にプラスの価値を賦与するのは、特定の「文脈」(言い換えれば、評価者集団の慣習)です。なので

    千葉雅也さん@masayachibaの「なぜ『ギャル男』や『ラッセン』などを批評の対象にしてきたのか?」
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●『ガッチャマンクラウズ』、最終回。この作品に関しては山のようにつっこみどころがある(ほんとにいくらでもある)とは思うのだけど、しかしそうだとしても、それはそれとして、とても野心的で刺激的で新鮮な、面白い作品だったと思う。宮崎駿が言う「悪人をやっつければ平和がくるという映画はつくらない」という理念を「ヒーロー物において実現する」というとんでもない無理ゲーをなんとかクリアした、みたいな感じ。それによって、物語によって表現可能なものの新しい地平をつくりだしたといってもいいように思う。 ヒーローのオープンソース化(正確にはオープンソースとは言えないのでフリーウェア化というべきか)。それに伴う課題とその乗り越え(に関する希望的展望)みたいな話ともいえる。そういう意味で『南極点のピアピア動画』に近い感じもある。こういう概念は、たとえば今のハリウッドのヒーロー物的な想像力には全くないものだと思う(きっ

    ■ - 偽日記@はてなブログ
  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●両国のART TRACEで、シンポジウム「今、ここにある美術批評(誌)」。以下は、ぼくの感想というか、聞いていて勝手に考えたことであって、シンポジウムの内容の正確なレポートのようなものでは全くないです。 「批評」という言葉を使うことのめんどくささというのがあって、ぼくとしてはその言葉はなるべく使いたくないと思っているのだけど、星野太さんの発言を聞いてその理由がなんとなく分かった気がした。つまり、「批評」という言葉にはおおざっぱに言って二種類の意味がある、と。 例えば、ある状況があって、その状況に対して従来なされているもの、あるいは常識的なものとは異なる、新たな、刺激的な、創造的な、革命的な、そういうやり方で問い直しを行い、介入を試みることを「批評的な行為」と言うのだとすれば、それは至るところにあり、昔からあり、今もありつづける。そのような批評は遍在する。 しかしそれとは別に、日という場

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  • ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論 - 名無し委員会

    稿は、『別冊情況 思想理論篇』第二号に掲載されたものである) ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論 藤田直哉 ゼロ年代批評の政治旋回!? 『思想地図β』vol.3(二〇一二)、特集「日2.0」の巻頭言で、東浩紀は政治旋回宣言を行った。 日はどうあるべきか。考えてみれば、ぼくたちは長いあいだ、その素朴な問いをこそ忘れてきた。停滞する政治を尻目に、消費社会のまどろみのなか、それがまどろみにすぎないことを知りながら、現実との直面を先送りにしてきた。(p44)。 ぼくたちは長いあいだ、自分たちがなにものか、その問いへの直面を(原発の問題への直面を、沖縄の問題への直面を、世代間格差の問題への直面を)避けることこそが幸せの条件であり、成熟の条件であり、ひいては「正義」の条件ですらあると教えられてきた。(同) ゼロ年代を代表し、オタク・カルチャーを牽引し、ポストモダンを肯定していた東浩紀という人物

    ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論 - 名無し委員会
  • 『日本2.0 思想地図β vol.3』批評①、千葉雅也氏著「あなたにギャル男を愛していないとは言わせない−「クールジャパノロジー」と倒錯の強い定義」批評、ネタバレ有り - Dobjectdesignのレビ��

    評論, ネタバレ, ライトノベル2012/7/17に発売された東浩紀氏著・編集の『日2.0 思想地図β vol.3』を読了した。日2.0 思想地図β vol.3作者: 東浩紀,村上隆,津田大介,高橋源一郎,梅原猛,椹木野衣,常岡浩介,志倉千代丸,福嶋麻衣子,市川真人,楠正憲,境真良,白田秀彰,西田亮介,藤村龍至,千葉雅也,伊藤剛,新津保建秀出版社/メーカー: ゲンロン発売日: 2012/07/17メディア: 単行購入: 7人 クリック: 56回この商品を含むブログ (19件) を見る収録された論文の方向性が多様性に富むので、総括して評するのは出来ないと思い、愚直に一つずつ感想もしくは批評していきたいと思う。常であれば掲載順に感想を記載するのだが、あまりに内容が膨大かつ内容によってモチベーションが上下するので、今回は思い思いの順番でブログを更新していこうと思う。 最初に取り上げたいのは

  • REALTOKYO | Column | Tokyo Review | 第7回:公開トーク『批評・レビューとメディアをめぐって』

    REALTOKYO×Tokyo Art Research Labが共同で企画運営する批評家・レビュワー養成講座「『見巧者』になるために」。2011年秋に5回にわたって開催された一連のプログラムの総括として、ゲストライターとして参加した各氏が一堂に会してディスカッションを行った。批評とレビューの役割、またカルチャーシーンを取り上げるメディアのあり方とは? 司会:小崎哲哉 小崎:今回の5人のゲストの方には、昨秋開催されたイベントのレビューをそれぞれ書いていただきました。まずは皆さんの批評観、レビュー観を聞かせて下さい。 内発的なものにこそ意味がある 畠中:批評とレビューは少し違いますよね。スタイルは字数や媒体によっても違いますし、もちろん求められるものによっても違ってきます。この講座では4,000字の原稿を書きましたが、それは批評とレビューの中間っぽいもの。書きたいことが書ける字数ですが、批評

  • qual quelle on Twitter: "椹木野衣氏のTwitter/Facebook的「感動」は、批評の放棄である。この手の舞文は、1940年代の美術雑誌にうじゃうじゃ載っている。かくして椹木氏もまた、説得と共感とを区別しない(できない)類の情緒の陥穽に、自身をどっぷりと沈めたように思われる。"

    椹木野衣氏のTwitter/Facebook的「感動」は、批評の放棄である。この手の舞文は、1940年代の美術雑誌にうじゃうじゃ載っている。かくして椹木氏もまた、説得と共感とを区別しない(できない)類の情緒の陥穽に、自身をどっぷりと沈めたように思われる。

    qual quelle on Twitter: "椹木野衣氏のTwitter/Facebook的「感動」は、批評の放棄である。この手の舞文は、1940年代の美術雑誌にうじゃうじゃ載っている。かくして椹木氏もまた、説得と共感とを区別しない(できない)類の情緒の陥穽に、自身をどっぷりと沈めたように思われる。"
    ohnosakiko
    ohnosakiko 2012/02/14
    (村上隆に)「入信した」と明言した東浩紀の方が、批評の言葉ではないことを示している点で潔い/「震災以後」美術も批評も”リセット”されたということにするのだとしたら、実際問題そうなってきているのかも。
  • 萌えアートを斬る!(アライ=ヒロユキ) | 週刊金曜日オンライン

    いつの頃からかよく耳にする「萌え」という言葉。「おたく」の世界の話でしょ、と思いきや、いまや影響は多方面に。現代アートの世界でも「萌え」が席捲している。しかし、はたしてその作品群は、オトナの鑑識眼に耐えうるものなのだろうか? 妖怪が現代アートの世界を徘徊している。「萌えアート」という妖怪が――。 現代アートはいまアニメ・マンガの多大な影響を受けているが、その新潮流の旗手として頭角を現してきたのが、「カオス*ラウンジ」という美術集団。ちなみに「萌え」とはおたく用語で、空想上の登場人物(基は女性)に入れ込む状態をさす。 寄せ書きによる、アニメ『らき☆すた』の少女・つかさの立体作品。少女キャラを無数に貼り合わせた、梅沢和木のデジタル絵画。琴葉とこによる、心の病を負った=メンヘラ少女が立ち直る物語のマンガ同人誌。名門ギャラリー、高橋コレクション日比谷の展示場を彩ったこうした風景こそ、カオス*ラウ

    萌えアートを斬る!(アライ=ヒロユキ) | 週刊金曜日オンライン
    ohnosakiko
    ohnosakiko 2011/07/27
    流行ってる「キャラ萌え」に乗って「安定的なコミュニケーション」を称揚してどうするのかなぁ、アートが。批判的に扱うならわかるが/椹木野衣はさすがにケチつけたのか/村上以降、作品批評より状況論が目立つ気が
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