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メディオロジーに関するsuna_zuのブックマーク (23)

  • マクルーハンの光景 メディア論がみえる [理想の教室] - 情報考学 Passion For The Future

    ・マクルーハンの光景 メディア論がみえる [理想の教室] マクルーハン生誕100周年だそうだ。ちょうどわかりやすい入門書がでていた。 3つの講義形式をとる。親切で落ちこぼれをつくらない授業だ。 マクルーハンの難解な『外心の呵責』の全文和訳を素で読んだあとに、著者による行レベルの丁寧な解説がつく第一講。専門家に横についてもらいながら、物を体験できる感じで、安心して読める。 第2講ではマクルーハンの生涯と主な著作についての解説、そして「メディアはメッセージである」の解釈。第3講では「地球村」の概念の再検討と、その思想の芸術面への広がりについて語られる。 マクルーハンの思想の中心にあるのは「メディア=テクノロジー=人間の身体と精神の拡張」という考え方だ。その著作は、インターネットもケータイもなかった時代の執筆にも関わらず、現代に起きていることを予言していたかのようなことばで満ちている。 「文字

    suna_zu
    suna_zu 2023/04/20
    メディア=テクノロジー=身体と精神の拡張。電子メディアが新しい環境同時多発性を生む。伝える情報密度高い補完必要ない受け手参加度低い高精細度=低参加度ホットメディア。低い不足情報頭で考え補完参加度高いクール
  • マクルーハンを超えて

    マクルーハンを超えて Beyond McLuhan 末廣伸行 SUEHIRO Nobuyuki ICC公開研究会 ――マクルーハン・プログラム・テレビ会議 1998年1月13日,20日,2月3日 ICCギャラリーD Monday Night Seminar in ICC January 13, 20, February 3 ICC Gallery D インターネットの誕生と成長により「電気・電子メディアによって人間の中枢神経が地球規模に拡張される」というマーシャル・マクルーハンの理論が,「地球村」というあまりにも楽天的な幻想はさておき,30年の時を経て再び現実的な意味をもちはじめた.インターネット,特にワールド・ワイド・ウェブは双方向性,時間的空間的制約からの解放などの特性において,既存のメディアとはまったく位相を異にする.「メディアはメッセージである」とするマクルーハンの言説から考えると

  • マクルーハンのテーゼの特殊なターム――理論の枠組み

    きわめて広範な現象を対象とするマクルーハン理論の枠組みとなっているのは、ごく大雑把にいって、文字(アルファベット)をもたない文化から、文字にもとづく文化(とりわけ活版印刷以降の西欧文化)をへて、電子メディアによって変革された文化へといたる、メディアの展開およびそれによって規定された世界の認識様式・経験様式の展開である。 この三段階的な展開のうち、とりわけ問題になってくるのが、西欧文化(=第二段階)において支配的な「文字人間型文化」の認識様式の分析とそれに対する批判的視点、そして、マクルーハンが問題提起を行った1960年代に次第に顕著になっていったテレビなどの電子メディアにもとづく新たな認識様式に対する分析・その可能性の検討である。 マクルーハンによれば、文字文化以前の人間(=第一段階)の認識様式はさまざまな感覚の統合によるものであったのに対し、表音文字としてのアルファベットを書き言葉として

  • メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 2010年大晦日。 今日は、1980年12月31日に亡くなった、カナダ出身の英文学者であり、文明批評家であるマーシャル・マクルーハンの没後30年にあたります。 そして、明日になれば、1911年生まれのマクルーハンの生誕100周年を迎える。 その節目の今日こそ、これまで何度となく取り上げてきたマクルーハンの『メディア論―人間の拡張の諸相』を紹介にふさわしいのではないかと思い、このエントリーを今年の最後のエントリーとして選びました。 書でマクルーハンが「話されることば」や「書かれたことば」、「道路と紙のルート」、「数」、「衣服」、「印刷」、「漫画」、「印刷されたことば」、「写真」、「新聞」、「自動車」、「広告」、「タイプライター」、「電話」、「蓄音機」、「テレビ」などのさまざ

  • 田中久美子『記号と再帰』 - 仕事の日記

    記号と再帰: 記号論の形式・プログラムの必然 作者: 田中久美子出版社/メーカー: 東京大学出版会発売日: 2010/06/23メディア: 単行購入: 2人 クリック: 201回この商品を含むブログ (27件) を見る 先に読んだ木村大治『括弧の意味論』のなかで、 http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120719/p1 http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20120720/p1 脱稿後に出たので論旨を盛り込めなかった(いわば括弧にくくられた「穴」)として言及されており、サントリー学芸賞で紹介文を見て気にはなっていたので、読んでみました。 - 自然物をお手にして人工物を制作する、という理念は今も昔も強力で、日常性の哲学だってその現代版のようなところがあり、人間という生物を手にして人工知能が研究されたり、プログラミング言語という人

    田中久美子『記号と再帰』 - 仕事の日記
    suna_zu
    suna_zu 2016/02/23
    再帰が人文と理をつなぐ概念factorial (x) = x * factorial (x - 1) 並置関数が規定に沿って簡約を無名の関数が使用によって名前をもつ。構造architecture構成structure。モナド諸記号が不透明がんじがらめ世界の絶えざる更新と使い捨て
  • 田中久美子(2010)『記号と再帰 記号論の形式・プログラムの必然』東京大学出版会.

    二元論では使用は記号モデルの外に配置され、使用によって生成される記号の意味は記号系の全体論的価値を為した。一方の三元論では使用は記号モデルの内側に含められた。(中略)二元論では、記号はよその記号から呼ばれ、呼んだ記号がまた別の記号から呼ばれることを繰り返して記号過程が生成された...

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/23
    使用は記号モデルの外に配置され、生成される記号の意味は系の全体論敵価値。記号は他の記号から呼ばれ繰り返し過程が生成。内側に含められ、記号の解釈項を記号自身が呼び解釈項がさらに記号を為し過程が生成
  • 記号論の再構築のために(2) - 現在思想のために

    3 古典的記号論から現代的記号論への展開――ソシュール記号学の構想 20世紀から現時点までの記号思想の展開を通観するとき、この間になされた探究の跡を大きく整理して、これを「古典的記号論から現代的記号論への展開」と捉えることができる。いまでは常識となっているように、20世紀において記号論を構築するのに力を尽くしたのは、ソシュール(F. de Saussure)とパース(C. S. Peirce)の二人であった。彼らの業績はまことに偉大でありその意義はいまだに汲みつくされてはいない。いま私たちが目にしている記号論はほぼ彼らの衣鉢を継いだ仕事だといっても過言ではないだろう。彼らの業績が「古典的記号論」に礎石を据えたのである。 一般に、歴史的系譜に正統と異端があるように、記号論についても、異端の系譜がないわけではない。とはいえ、闇の暗さが光のかがやきによっていっそう暗くなるように、異端者がマジョリ

    記号論の再構築のために(2) - 現在思想のために
    suna_zu
    suna_zu 2016/02/22
    実在論的記号観/内部存在論的記号観へ転換。人間は/langage潜在普遍な言語使用理性概念化能力を生得的に所有/langue(パースペクティヴ一様でないので様々な様態)集団の場に顕在化した形態を設定/parole個々の発話行為が生起
  • 特異点、精神的麻薬、社会的余剰(後編) | ワイアードビジョン アーカイブ

    特異点、精神的麻薬、社会的余剰(後編) 2008年7月17日

    特異点、精神的麻薬、社会的余剰(後編) | ワイアードビジョン アーカイブ
    suna_zu
    suna_zu 2016/02/22
    シャーキー新刊 Web 2.0 時代の集合知を前提とする組織、コミュニティ、そしてソーシャルソフトウェアを論じる。現在はテレビなどから解放された「思考の余剰」が組織化される初期段階にある。有意義自律的か。
  • 特異点、精神的麻薬、社会的余剰(前編) | ワイアードビジョン アーカイブ

    特異点、精神的麻薬、社会的余剰(前編) 2008年7月16日

    特異点、精神的麻薬、社会的余剰(前編) | ワイアードビジョン アーカイブ
    suna_zu
    suna_zu 2016/02/22
    ドクトロウSF作家が言い当てる「現在」テクノロジーにより人間種自体を超越する特異点そこから人が置いていかれテクノロジーとどんどん差が開くできそうにないことができる死が避けられる希望科学的客観性を曇らせる
  • 第12回インターネット講座

    1998年度 インターネット講座 メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程 第12回 デジタル技術時代のテクスト (3) ハイパーテクストとテクスト (99/03/11 更新) 一種のテクストとしてのハイパーテクストの位置づけは? デジタル的な技術メディアの文化と文字メディアの文化との関係をとりあげてきたこの三回の講義の最後として――そして、このインターネット講座の最終回として――、今回はハイパーテクストをテーマとします。ハイパーテクストは、主に文字を用いているという点で、それ自体確かに一種のテクストのようではありながら、基的に使われている形態としては技術メディアに基づくものです。[註0a]コンピュータの世界に視点を置いて考える人からすれば、見たところ、それはコンピュータという技術メディアの中に生き残っている、古いメディアとしての「テクスト」のようでもあります。あるいは反対に、「テク

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/20
    ハイパーテクスト小史。「ハイパーテクスト」はさまざまなテクストが網の目状にお互いに結びつけられて存在していること。インターネット上World Wide Web上のクリックして次のページのテクストに移るテクストの連鎖
  • 第11回インターネット講座

    1998年度 インターネット講座 メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程 第11回 デジタル技術時代のテクスト (2) テクストの臨界点と「テクノ画像」 (99/02/17 更新) フルッサーのテクノコードの理論 われわれが今生きている文化において、「文字言語」が依然として中心的役割を果たしており、また、これまでの文字文化の遺産を圧倒的に受け継いでいる状況にあるということは、明白な事実です。しかしまた同時に、われわれが技術メディアのいわば洪水のただ中にあるということもはっきりしています。こういった状況にあって、文字言語と技術メディアはどのような関係にあるのか、「読む」「書く」という行為、つまり書かれた言葉によって世界を捉えるという行為は、技術メディアによってどのように位置づけられるものとなるのか、という問題を、今回は、これまでも何度か引き合いに出してきたドイツのメディア論者フルッサー

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/16
    最初のコード:「画像」。人間は世界の中にとけ込んでいて楽園のアダムとイブのように<世界>と一体。<世界>から離れることで対象化する。原始人が洞窟に絵を描いたように「画像」で代替し働きかける
  • 第10回 インターネット講座

    1998年度 インターネット講座 メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程 第10回 デジタル技術時代のテクスト (1) 人文的価値観と技術 (99/01/15 更新) テーマの方向付け――デジタル技術文化と文字文化 このインターネット講座の最後の三回は、「デジタル技術時代のテクスト」というテーマのもとに話を進めていきます。このようなタイトルのもとに私が意図しているのは、もちろん、単に新しい技術を称揚することではなく、これまで取り上げてきたようなメディアの展開に基づいて考えるとすれば、二番目の段階として位置づけられている「文字言語」とその文化(「文字文化」)は、結局どうなるのか、どのような方向に向かいつつあるのかを考えることです。では、なぜ、とくに「文字文化」を考えるのか――それは、われわれが引き継いできた文化的遺産(厳密に言うならば、マクルーハンが言うように、とりわけアルファベットと

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/16
    テーマの方向付け――デジタル技術文化と文字文化。われわれがコンピュータの画面の上に見ているのは、あいかわらず「文字」です。デジタル技術文化における文字文化の位置はどのようなものであるか
  • 第9回 インターネット講座

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/15
    技術メディア・身体性・インターフェース。技術メディアと接続した身体がどのような感覚変容を受けるか?口述文化に戻るのでなく、別のほうへ行くのでは?
  • 第8回 インターネット講座

    1998年度 インターネット講座 メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程 第8回 メディアと身体 (2) 文字における「イマジネーション」 (99/01/02 更新) 音声言語と身体性 前回は、メディアと身体の接続に際してどのようなことが起こっているか、論議となる点を全般的に概観してみました。これから、それぞれのメディアの段階ごとにもう少し詳しく見ていきたいと思います。ここでメディアの段階と呼んでいるものは、これまでもそれにしたがって話を進めてきたような「音声言語」を中心とする感覚的直接性の段階、「文字言語」の段階、そして電気/デジタルメディアの段階です。 最初の「音声言語」を中心とする段階は、これまでも述べてきたように、単に音声言語だけが問題となるのではなく、五感によって世界を統合的に感じ取る状態にあると考えてきました。その性格として「直接的」という言葉を何度も用いてきましたが、こ

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/13
    音声言語と身体性。直接的とは何の媒介・媒体も存在しないこと。光や音は媒体で直接的でないが誤解は目耳感覚器官外界との間のインターフェースが精巧にできていて長い時間をかけて高いレベルで習熟しているから
  • 第7回 インターネット講座

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/12
    メディアと人間の接続--身体論。0と1による完全な離散性が線面空間時空的感覚性を備えるものとなる。機械(技術メディア)と接続する人間の身体のため。人間と人間のあいだに機械。人間と機械の界面インターフェース
  • 第6回 インターネット講座

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    suna_zu 2016/02/11
    デジタル・メディアの特質--離散的か、感覚的か。コンピュータと関わると内部だけで働く論理性規約性により思考様式も離散的になる。技術が思考様式を規定。思考様式に次の技術の段階が要請され相互、動的作用が続く
  • 第5回 インターネット講座

    1998年度 インターネット講座 メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程 第5回 チューリングの銀河系 (1) (1998/08/16更新) グーテンベルク銀河系の終焉 1993年に『グーテンベルク銀河系の終焉』と題する著作を出版しているノルベルト・ボルツは、マクルーハンが「グーテンベルクの銀河系」と呼んだ書物文化の価値観に幕を引き、電子メディア、というよりデジタル・メディアの思考様式への転換を宣言しています。このタイトル自体が示しているように、ボルツの指し示す方向は、基的にはマクルーハンの示したものと同じ方向にあります。研究者においてはマクルーハンのさまざまな定式化の粗雑さが批判の俎上にのぼっているものの(また、マクルーハン自身が当初大いに荷担した大衆ジャーナリズムにおいては、「マクルーハン」という現象はすでにジャーナリズムの性質上消費し尽くされたかのような観を呈している状況にあ

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/11
    グーテンベルク銀河系の終焉(ノルベルト・ボルツ) 新しいメディア世界の子供たちの探求研究は形態認識で行う。現実性は機能に。分類と因果性は配置・設定に。意味は効果に。綜合Synthesisはファイン・チューニングに
  • 1998年 インターネット講座 第4回

    1998年度 インターネット講座 メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程 第4回 マクルーハン的視点の継承 (1998/07/15更新) これまでの論点 2回にわたってマクルーハンが彼の主著の中で述べていることの論点を取り上げてきました。実はその時点ですでに、マクルーハン自身の論点の中から取捨選択を行い、それにともなって彼の論の展開におけるアクセントの置きかたとは違ったふうに思想を再構成してまとめている面もあるのですが、それは、今回以降に述べようとしている現在のメディア理論におけるマクルーハン的な視点の継承を照準に合わせてのことです。マクルーハンの思想をまとめる際に、私はとりあえず、それぞれ密接に関連しあっている次の3つの点を念頭において述べてきました。 メディアの3段階(ないしは4段階)的な展開の図式 (音声言語→文字(筆記→活版印刷)→電子メディア) 感覚の変容 社会過程の要因 

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/11
    それぞれのメディアの特性。文字という物質的な媒体はそれ自体によってある身体的感覚を引き起こすものでない読むことでその伝達内容をある身体的感覚に翻訳するがそれは実際の経験でない直接的な身体性をもってない
  • 山口裕之 第3回インターネット講座

    1998年度 インターネット講座 メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程 第3回 マクルーハン(2) (更新日 98/06/17) 電子文化――口述文化への回帰 前回は、マクルーハンが示したメディアの展開のうち、音声言語から文字言語への転換を扱いましたが、今回は、彼自身もっともアクチュアルな問題として提起した電気的メディアについて取り上げます。 マクルーハンの名を世界的に広めることになった『グーテンベルクの銀河系』や『メディア論』を彼が書いた1960年代前半は、前にも触れたように、テレビが家庭に普及しはじめ、新しいメディアによって社会や文化が変わりつつあることを人々が実感していた時代でしたが、まさに文字文化から電子文化への界面をなす時代であったからこそ、彼の提起したような視点が生まれたといえるでしょう。ただし、マクルーハン自身は、その移り変わりを、もっと以前の時期のうちに見ており、「

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/10
    電子文化--口述文化への回帰。1口述文化において人間が持っていた諸感覚の有機的統合2文字文化の視覚中心主義によって偏った世界の知覚と論理性に取って代わられた歪み3電子文化によって再び諸感覚の有機的統合へ回復
  • 山口裕之 インターネット講座 第2回

    1998年度 インターネット講座 メディア・情報・身体 ―― メディア論の射程 第2回 マクルーハン (1) (更新日 98/06/17) medium/mediaのさまざまな意味 前回の最後に、今回は「メディアとは何か」ということから話をはじめると書きました。このインターネット講座全体が「メディアとは何か」を考えることを目指しているといったにもかかわらず今回でほとんど話が終わってしまうわけではもちろんなく、とりあえずこれから「メディア」という言葉の語義を話の発端としたいと思います。 日語における「メディア」という語は、一般に、テレビ・ラジオ・新聞といった、いわゆる「マスメディア」のみをさすようです。教室でこういった内容の授業のときに、学生に「メディア」という言葉で連想するものを次々に言ってもらっても、ほぼ例外なくこういった圏内の言葉があがってきます。英語で、mediumの複数形としての

    suna_zu
    suna_zu 2016/02/10
    口述文化から文字文化へ。後述文化=あらゆる感覚を統合させて直接的・同時的に経験していた世界。文字文化=文字によって分節化し、線状的・論理的に構造化します。視覚が優位他の感覚を抑圧しつつ、分節化が行われる