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議論に関するtohshindainokawaisaのブックマーク (6)

  • 「差別ではあるよね」で合意できない理由 - U.G.R.R.

    以下の記事に接した。 せめて「差別ではあるよね」で合意できないのか 「女性専用車両を設けることに賛成はするが、それが差別だと認めろ」という主張だ。大きな反響を呼んでいるが、これから述べる点をもう少し意識すれば、理解が容易になるのではないかと思う。あまり実りのある話題でもないように思うので、簡潔にまとめたい。 女性専用車両を設けることが差別でないとする理由は、ほぼ「差別は悪いものだから」ということに尽きるものと思われる。より分かりやすく述べるならば、「差別」という語は、「不当である」という否定的価値判断を含むものであるから、不当ではない女性専用車両の設置を差別とは言わない、ということだ。そして、このような「差別」という語についての理解は、一般的であり、正しくもある。例えば、デジタル大辞泉は、「差別」について以下のように説明する*1。 (略) 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く

    「差別ではあるよね」で合意できない理由 - U.G.R.R.
    tohshindainokawaisa
    tohshindainokawaisa 2018/02/27
    ブコメも増田もこのブログも合理性や差別の定義を明らかにしておらず、自分の思い込みでしか話をしていないから議論が噛み合うはずもない。ああだこうだ言う前に定義を明示すべき。なんのための議論なのか
  • たとえ話につっこむやつはすべからくバカである!!!(クソリプ事例集)※追記の方が多くなった

    社会問題とかで比喩やたとえ話をすると、その表現に対してクソバカなコメントをするやつが大量に現れる。 ちょっと前の例だと http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1953788.html 「被曝者のモノマネをされたら日人は怒るでしょう?」…黒人モノマネについて最近みかけたやつだと http://www.h-yamaguchi.net/2018/02/post-d38e.html 女性専用車両の土台にあるロジックはイスラム教徒の入国制限のそれとほぼ同等という話「たとえ話は炎上するとママに教わらなかったのか?」なんてコメントがつくまでがワンセットだ。 それも風物詩ではあるが、にしてもアホみたいなクソコメの数々を見ていると情けなくなってくる。 そういうバカなコメントのパターンをいくつか挙げて、それらがいかにバカであるかを説明してやろう。 以下、 「たとえ

    たとえ話につっこむやつはすべからくバカである!!!(クソリプ事例集)※追記の方が多くなった
    tohshindainokawaisa
    tohshindainokawaisa 2018/02/20
    それは激しく同意。あくまで感想だが、本質的かつ抽象的な話になると理解できないとか言い出す癖にたとえ話にするとそれは間違いと突っ込むのはおかしいと思う。まず抽象的な話を理解できる頭を持ってから言ってくれ
  • マンチェスター市立美術館がウォーターハウスの《ヒュラスとニンフたち》を撤去。非難が殺到

    マンチェスター市立美術館がウォーターハウスの《ヒュラスとニンフたち》を撤去。非難が殺到イギリスのマンチェスター市立美術館が、 J. W. ウォーターハウスの《ヒュラスとニンフたち》(1896)の一時的な撤去に乗り出し、騒動となっている。 昨年、ニューヨーク・メトロポリタン美術館に展示されているバルテュスの《夢見るテレーズ》に対して起こった撤去要請運動が記憶に新しいが、今回は美術館側の自主的な撤去が行われたようだ。 問題となったのは《ヒュラスとニンフたち》。これは、ギリシャ神話から主題を得た作品で、若々しい裸のニンフたちがヒュラス国王を池の中に誘う場面を描いたもの。同美術館では同様の作品が数点「美の追求」と題されたスペースに飾られているが、女性を「受動的な着飾り」や「ファム・ファタル」とする「非常に時代遅れ」な表現であると当該学芸員クレア・ギャナウェイにより注意書きがなされていた。今回同館は

    マンチェスター市立美術館がウォーターハウスの《ヒュラスとニンフたち》を撤去。非難が殺到
    tohshindainokawaisa
    tohshindainokawaisa 2018/02/02
    もうこりごりだよ…
  • 日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか

    いいかげん納得のいく理由を教えてくれ。 今年ももうすぐセンター試験だ。何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。 おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。そもそも「古文・漢文」という"学問"が、根的に無意味だと立証するだけの道具はない。大学で専門的に研究している人たちにとって、古文・漢文はどこまでも「面白くて」「魅力がある」のも理解できる。「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。多少なりとも共感能力と良心があるんだったら、文学部不要論とか言ってないで税金投入しろよ、って思う。 ようするに言いたいのは、ここでの古文・漢文不要論と、大学での文学部不要論は全くことなる議論だってこと。 専門的な学問を「

    日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか
    tohshindainokawaisa
    tohshindainokawaisa 2018/01/05
    古典が試験科目に設定されていることについての必然性の議論は不毛。センター試験の方針だからとしか答えようがない。これは古典のみならず他の科目についても共通して言える。古典のみ議論するのはおかしい
  • コンサルタントだった頃学んだ「議論がうまい人」とそうでない人の5つの差異。

    コンサルタントをやっていたころ、「議論」を見る機会がよくあった。 「見る」といったのは、私が議論に参加することは殆どなかったからだ。 というのも、コンサルティングには 「お客さんとは絶対に議論するな。お客さん同士で議論してもらえ」 という原則があり、私はそれを忠実に守ったのである。 そのため私は、第三者として、様々な会社で、多くの議論を見る機会に恵まれた。 そこで一つ気づいたことがある。 「議論のうまい人」と「議論がへたな人」は、非常にはっきりと分かれるのだ。 「議論」とは何か 当然、人によって議論に抱くイメージは異なるだろうから、まずハッキリとさせておかなければならないのが、「議論」の定義だ。 広辞苑にはこのように書かれている。 【議論】 互いに自分の説を述べ合い、論じ合うこと。意見を戦わせること。またその内容。 (広辞苑第六版) 私が見てきた議論の殆どは会議やディスカッションなど、 「

    コンサルタントだった頃学んだ「議論がうまい人」とそうでない人の5つの差異。
    tohshindainokawaisa
    tohshindainokawaisa 2017/12/16
    これはぜひ心に留めておきたい。殊にネット上での「議論」は実は単なるレスバトルであることがよくあるので
  • 「議論」「討論」に対する妙な偏見は、一体どこから来ているのだろう: 不倒城

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    tohshindainokawaisa
    tohshindainokawaisa 2017/12/05
    討論はあくまでエビデンスの積み重ねを行うものであるから、人格の否定とは全く関係がない。あのツイートで言っているのは討論ではなくレスバトル
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