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源氏物語に関するpirachanのブックマーク (13)

  • DSpace at Waseda University: 山田孝雄・谷崎潤一郎の研究 : 現代語訳「源氏物語」を媒介として

    yamada yoshio tanizaki jun'ichiro no kenkyu : gendaigo yaku genji monogatari o baikai to shite

    pirachan
    pirachan 2015/06/25
    おおっ。2012年にこういう博士論文が出ていたのね。〈女性への生成変化〉。これ、谷崎作品の大きなポイントですよね。
  • 谷崎潤一郎が源氏物語を訳した時に、自ら削除した部分があるらしい。何を削除したのか知りたい。2006年... | レファレンス協同データベース

    谷崎潤一郎が源氏物語を訳した時に、自ら削除した部分があるらしい。何を削除したのか知りたい。 2006年夏頃の『朝日新聞』の記事で知った。 所蔵資料で削除された部分すべてについて書かれたものは見つからなかった。 傾向(○○の巻に多い等)の記されたものとして次の資料を紹介。 ①『偲ぶ草-ジャーナリスト六十年』p43-50「谷崎源氏」出版の秘録に「藤壺と光源氏の情事関係は削除した」とあるが具体的な削除箇所の記述はなし。 ②『現代文学と古典』「谷崎潤一郎と源氏物語」に藤壺と源氏の対面、密通、帝の子として冷泉院が通うくだりがカットされたとある。 ③『谷崎潤一郎』(日古典文学資料刊行会 有精堂)「谷崎の源氏」に「藤壺事件」の復元について触れている。新訳と旧訳の比較。 ④「古典世界への志向-「潤一郎訳源氏物語」をめぐって二、三」(『国文学 23(10)』削除した事実と削除された部分が後年「藤壺」と題し

    谷崎潤一郎が源氏物語を訳した時に、自ら削除した部分があるらしい。何を削除したのか知りたい。2006年... | レファレンス協同データベース
  • 岷江入楚 - Wikipedia

    『岷江入楚』(みんごうにっそ/にゅうそ/じっそ)とは、『源氏物語』の注釈書である。『濫觴無底抄』、『源氏注抄』、『源氏物語詮抄』、『源氏物語岷江入楚』などとも呼ばれる[1]。 概要[編集] 全55巻。中院通勝著。1598年(慶長3年)完成。中院通勝(1558年(永禄元年)-1610年(慶長15年))が丹後に出奔した際、細川幽斎に出会い、要請を受けて記したものであり、『岷江入楚』という書名も細川幽斎の命名である。 通勝は『岷江入楚』の後、『九条家源氏物語聞書』と呼ばれる注釈書(聞書)を著している。 内容[編集] 総説の後、各巻ごとに源氏物語の文から重要な部分を取り出して、日中国の文献をはじめ仏典に至るまで、広い範囲の文献を引証し、また儒教的・道徳的な精神によって解釈されている。それまでの源氏学の集大成を試みたもの。それまでの諸注釈を明示して踏まえている結果源氏物語の文全文を含まない

    pirachan
    pirachan 2014/03/12
    谷崎が源氏物語を翻訳する時に使った資料。伊吹和子著『われよりほかに―谷崎潤一郎最後の十二年』に書かれている。中院通勝が丹後に出奔した際、細川幽斎に出会い、要請を受けて記したもの。
  • 迦陵頻 - 源氏物語

  • 源氏物語の遊び【高校生・受験生のみなさんへ】

  • 結 YUU -musubi-

    総角結びは、古代男子の髪型である角髪(みずら)から考案された結びで、高松塚古墳の壁画にも見られる大変古い結びです。平安時代の冠の飾りである心葉日蔭鬘(こころばひかげかずら)にも総角結びが見られます。前後二筋づつの紐を花の形に結び冠の左右に掛けて垂らした優雅な飾りで、神祭の清浄を表しています。 昔の人々は自然を象って紐を結び、その強い生命力を封じ込めて身につけることで生命の衰えを防ぎ、再生を願ったといいます。特に花は生命の象徴として好まれ、花形の文様は衣服や調度につけられました。このような自然観が紐を花の形に結ぶ「花結び」を生んだと考えられています。 装飾結びの代表といわれる総角結びですが、護符や魔除けとして、結び文化の精神性においても代表的な結びの一つといえます。端午の節供に飾られる鎧の背につけられた総角結びは、無防備な背後を守り、生命の緒をつなぎとめる護符としてつけられています。 この総

    pirachan
    pirachan 2012/09/21
    酒粕のおまんじゅうを谷崎が注文した時は、源氏の現代語訳で総角(あげまき)の後半に入ったところ。『アヴェ・マリア』『猫と庄造と二人のをんな』の結び玉、『瘋癲老人日記』の助六の解釈に光が点った気がする。
  • 503 error

    pirachan
    pirachan 2011/11/08
    『春琴抄』。これは!
  • 京都新聞

    京都市のラーメン店を網羅したマップを手がけ、ラーメン事情に精通する広告代理店「エリアサポート」(京都市右京区)の仲野勝代表(59)にラーメ…

    京都新聞
  • サービス終了のお知らせ

    サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。

  • 源高明 - Wikipedia

    系譜[編集] 父:醍醐天皇 母:源周子 - 源唱の娘 :藤原実頼の次女(?-947) :藤原師輔の三女(934-962) - 源俊賢の母 男子:源忠賢 - 忠賢の長男源致公は清和源氏源満季の猶子となる。 男子:源惟賢 男子:源俊賢(959-1027) 女子:為平親王室(951-?) :愛宮(941-?) - 藤原師輔の五女 男子:源経房(969-1023) 女子:源明子(975?-1049) - 盛明親王養女、藤原道長室 :源泉の娘 生母不明: 男子:源致賢 女子:藤原正光室 女子:源重信室 女子:藤原相尹室 子のうち長男の忠賢と致賢は安和の変で出家したが、俊賢と経房は後に政界で昇進して活躍している。また、娘の明子は藤原道長のとなった。 著作[編集] 『西宮記』当時の儀式・年中行事の式次第・内容を詳細に記した有職故実書。平安時代中期の宮中儀礼の様子を知ることが出来る一級史料である

  • http://www5b.biglobe.ne.jp/~freema/genji/zakkiH6.htm

  • 源融 - Wikipedia

    源 融 小倉百人一首第14番・河原左大臣 源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の第十二皇子 [1](嵯峨第十二源氏)。嵯峨源氏融流初代。河原院、河原大臣と呼ばれた[2]。 経歴[編集] 仁明朝の承和5年(838年)元服して正四位下に直叙され、承和6年(839年)侍従に任ぜられる。仁明朝末の承和15年(848年)右近衛中将に任ぜられると、嘉祥3年(850年)正月に従三位に叙せられ、29歳で公卿に列す。文徳天皇の即位後の同年5月に右衛門督に任ぜられて引き続き武官を務め、斉衡3年(856年)参議に昇った。 清和朝に入っても、天安4年(859年)正三位、貞観6年(864年)中納言と順調に昇進する。同年3月から貞観11年(869年)1月までは陸奥出羽按察使も兼任した。この頃、異母兄の左大臣・源信と大納言・伴善男が不和の状況にあったが、同年冬には源信が融・勤兄

    源融 - Wikipedia
  • いとおしき日々

    花と歌とあなたと

    いとおしき日々
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