――『天皇の影法師』より―― 「昭和」という元号がスタートしてまもなく、長谷川如是閑(にょぜかん)が昭和二年(1927)一月四日付の東京朝日新聞で「君主の交代による改元はもう昔の意味を失った」と論じた。こういう常識論はきわめて健康なもので、日々の暮らしのなかから合理的な精神を身につけた庶民の常識を高級に代弁したものとみてよい。 元号が合理主義で片付けられるものならことは簡単である。すでに江戸時代にも新井白石(はくせき)が元号に対して『折たく柴の記』で、合理的な思考方法に基づいた意見を述べている。林信篤(のぶあつ)が「正徳」の元号の「正」の字を不吉として改元を提案したことを記し、元号の文字に罪はない、そんなことをいうなら、古来年号に用いられた文字に一字として不祥事に遭わなかったものはないと反論していた。 しかし、こうした合理主義で片付かない問題が元号なのではないか。少なくとも、(森)鷗外にと