経験主義の第三のドグマ クワインが言う「翻訳の不確定性」というのは、つまり翻訳の多すぎる可能性、ということだ。「翻訳が不可能」なのではない。いくつもある翻訳の、どれかひとつを正当化するということが不可能なのだ。翻訳がただ一通りしかできないなら、それが唯一の翻訳なら「不確定」なことはない。いくつもの翻訳が可能で、そのうちのどれかひとつを「いちばんよい」とか「標準的」とかいう基準で選ぶことができないなら、翻訳はひとつに定まらず、不確定となる。 では、「いったい概念枠(パラダイム)や言語が異なるとは、どういうことを言うんだろう」と考えた人がいた。これにはすぐ答えが返ってきて「翻訳不可能なら、概念枠(パラダイム)や言語が異なっている」。 ところで、今比較されているのは、概念枠(パラダイム)同士、言語同士だから、概念枠(パラダイム)や言語の相違は、「翻訳できないが、相手は言語である」ってことになる