気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン 1985年はプラザ合意の年、私は37歳だった。この年の夏の終わりに米国を旅した。ワシントンDCでの国際会議に出席した後、大陸を横断して西海岸のロサンゼルス郊外にあるパサデナに向かった。カリフォルニア工科大学のK教授に、当時まだ12メートル級だったアメリカズカップ艇の設計案を説明するためだ。 丸1日かけた説明の翌日は、サンディエゴにいた。有力な技術コンサルタント会社で、船の波のコンピューターサイエンスについて講義を行った。当時、私の研究室は船の波の研究では世界のトップクラスにあり、特に波のコンピューターサイエンスに関しては先頭を走っていた。 ちょうどこの時期、カリフォルニア大学サンディエゴ校ではコンピューターセンターを建設中だった。今でこそ、コ