どこかに美しい村はないか 一日の仕事の終わりには一杯の黒ビール 鍬を立てかけ 籠をおき 男も女も大きなジョッキをかたむける どこかに美しい街はないか 食べられる実をつけた街路樹が どこまでも続き すみれいろした夕暮れは 若者のやさしいさざめきで満ち満ちる どこかに美しい人と人の力はないか 同じ時代をともに生きる したしさとおかしさとそうして怒りが 鋭い力となって たちあらわれる 現代日本の女性詩人、茨木のり子の「6月」。私がこの詩を初めて目にしたのは中学校2年の時、今から半世紀以上前のことである。中学生の私は、この詩に描かれた「ユートピア」(それも労働する男女のユートピア)のイメージに魅了された。「食べられる実をつけた街路樹」に飾られる街とは、まさしく植民地支配から解放された朝鮮民衆が見た夢でもあっただろう。 それから10年ほど後、母国留学中に軍事政権によって投獄された兄(徐俊植)に『茨木