日本軍に関するMARC73のブックマーク (8)

  • 牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵 - ジセダイ総研 | ジセダイ

    牟田口を貶める逸話 2018年7月、筆者は初の牟田口廉也の評伝である『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』(星海社新書)を刊行した。牟田口は、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)下の1944年3月に始まったインパール作戦を計画実行した人物として知られる。 牟田口廉也。森千鶴氏提供。 インパール作戦は、わずか1ヶ月の期間内にビルマ(現ミャンマー)からいくつもの峻険な山々を踏破して、インド北東部の都市インパールに攻めこむというものであった。牟田口は、第十五軍司令官として作戦部隊と統括する立場にあった。その牟田口が立案した作戦計画は、後方からの補給を軽視したきわめて杜撰な計画だったことから、多くの日軍将兵がインパールにたどり着く前に命を落とした。そのため、こんにち牟田口は、惨憺たる結果に終わったインパール作戦を指揮した「愚将」という不名誉なレッテルが貼られている。 しかし、インパール作

    牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵 - ジセダイ総研 | ジセダイ
  • 【本】阿利莫二「ルソン戦―死の谷」: 読書放浪記録

    (阿利莫二『ルソン戦―死の谷』(岩波新書、1987年)) 太平洋戦争中、学徒出陣でルソン島に出征した著者が、自らの従軍体験を著した戦記。 ルソン島の戦いに投入された学徒出陣者の数は、判明しているだけで約1,015名。このうち、日に生還できたのは約90名だった。書は、その数少ない生還者の一人である著者が、凄惨なルソン戦の実態を、自らの体験に基づいて書き綴った記録である。の雰囲気としては、尾川正二『「死の島」ニューギニア』(光人社NF文庫ほか)と、どことなく似ているように思えた。 著者ら前橋陸軍予備士官学校第11期の学徒兵約600名は、まだ修学中だった昭和19年9月、戦況の悪化を受けて、急きょ南方戦線に派遣されることになった。そして、バシー海峡を越えて無事ルソン島に上陸できた約400名は、第14方面軍の教育隊で現地教育を受け、昭和20年1月に見習士官に任官。著者は第19師団(虎兵団)への

  • 藤原岩市参謀と、インパール作戦の「統制前進説」について: 読書放浪記録

    太平洋戦争中、ビルマ戦線の第15軍で情報主任参謀を務めた、藤原岩市少佐(のち中佐)という人物がいる。インド独立支援の文脈で高く評価される傾向のある軍人だが、インパール作戦に関する彼の身の処し方には少なからず疑問の点があり、個人的には彼への評価は非常に辛い。彼のこういった部分に触れた話はあまり取り上げられていない気がするので、人物評価のバランスを取るために、今回は彼の疑問点についてまとめてみる。 第15軍司令官・牟田口廉也中将に関する有名な逸話として、インパール作戦失敗の責任を負い自決すべきかどうか、部下の藤原に相談したところ、かえって藤原から気で自決を勧められた、というものがある(詳細はこちらを参照)。意外に知られていないが、藤原は牟田口と同様、インパール作戦の推進に積極的だった人物である。作戦開始前、第15軍の多くの参謀たちが無謀な作戦に否定的だった中で、牟田口と藤原の両名は作戦の実施

  • 【本】高崎伝「最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記」: 読書放浪記録

    (高崎伝『最悪の戦場に奇蹟はなかった ガダルカナル、インパール戦記』(光人社NF文庫、2007年)) 太平洋戦争の悲惨な戦場である、ガダルカナル島の戦いとインパール作戦の両方を経験した兵士による戦記。 著者の所属する第18師団(菊兵団)の歩兵第124連隊は、太平洋戦争開戦後、ボルネオ島、セブ島、ミンダナオ島攻略作戦に勝利し、その後ガダルカナル島の戦いに参加して壊滅。戦力再建後、新設の第31師団(烈兵団)に配属替えとなり、ビルマ戦線に投入。インパール作戦やその後の撤退戦を戦い抜き、ビルマ南部で終戦を迎えている。著者は、開戦から終戦までこの連隊に所属し、ガダルカナル戦とインパール作戦の双方を体験した人物である。 書は、極めて陰惨な戦場を描写した戦記であるにもかかわらず、意外に読みやすい一書である。それは著者自身の個性と、その文才による部分が大きいのではないかと思う。気性の荒い北九州の部隊で、

  • 広中一成氏らの見解への疑問(高木俊朗の作品について): 読書放浪記録

    前回、牟田口廉也の宴会エピソードに関する記事を書いたが、その後、再びジセダイ総研に、「昭和陸軍と牟田口廉也 その「組織」と「愚将」像を再検討する」という座談会レポート(以下、単に「レポート」と呼ぶ)が掲載された。 このレポートの内容にも疑問点が多々あるので、改めて検証してみたい。 1 『抗命』と『戦死』の記述の重複説について(1) レポートの中では、以下のようなやり取りが行われている。 「広中:たとえばですが、高木俊朗の『抗命』の中に、牟田口が第十五軍司令部に作らせた遥拝場の前で、撤退してきた幹部の前で長々と精神訓話を垂れて、栄養失調の幹部たちがバタバタと倒れた......という有名な逸話があります。 辻田:ああ、誰でも知っているようなやつですね。 広中:ところが、おなじ高木の『戦死』にはこれに極めて類似した逸話が、桜井徳太郎のものとして出てくるんですよ。こうなると、実証史学的にはどちらも

  • 広中一成氏の「牟田口廉也の宴会エピソード」否定論について: 読書放浪記録

    星海社新書から『牟田口廉也 「愚将」はいかにして生み出されたのか』を刊行された広中一成氏が、ジセダイ総研というサイトで、「牟田口廉也「愚将」逸話の検証 伝単と前線将兵」という記事を発表されている(以下、「広中記事」と呼ぶ)。その中で広中氏は、「牟田口中将がインパール作戦中に連日宴会を開いていた」とのエピソードに関して、「宴会逸話の初出は高木俊朗の著作か」などとして、その信憑性に疑問を呈されている。 この広中氏の見解が妥当なものかどうか、検証してみたい。 なお、「軍人が宴会に興じていた」などという事実は、公文書に記録されるような性質の話ではないし、当事者が日記などに記録したがる事柄でもない。公的史料や当事者の記録だけに頼って立論しようとすれば、「そのような事実は発見できなかった」という結論に至ることは極めて当然であり、事実関係を明らかにするためには、当事者の周囲にいた人々の証言に当たることが

  • 1944年から敗戦までの日本陸軍師団数の推移(歩兵師団) - 誰かの妄想・はてなブログ版

    1943年末の時点で、日陸軍の歩兵師団数は70個に達しています。 太平洋戦争開戦時(1941年12月)から1943年までの日陸軍師団数の推移 四単位師団が2個、三単位師団が58個、独立歩兵大隊から成る治安師団が10個という内訳です。 四単位師団 G1D, 7D 三単位師団 G2D, 1D, 2D, 3D, 4D, 5D, 6D, 8D, 9D, 10D, 11D, 12D, 13D, 14D, 15D, 16D, 17D, 18D, 19D, 20D, 21D, 22D, 23D, 24D, 25D, 26D, 27D, 28D, 29D, 30D, 31D, 32D, 33D, 34D, 35D, 36D, 37D, 38D, 39D, 40D, 41D, 42D, 43D, 46D, 47D, 48D, 51D, 52D, 53D, 54D, 55D, 56D, 57D, 61D,

    1944年から敗戦までの日本陸軍師団数の推移(歩兵師団) - 誰かの妄想・はてなブログ版
  • 太平洋戦争開戦時(1941年12月)から1943年までの日本陸軍師団数の推移 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    1941年12月 「日中戦争開戦(1937年7月)時から太平洋戦争開戦(1941年12月)の日陸軍師団数の推移」で見た1941年12月時点の日陸軍師団の状況ですが、総数51個師団、うち三単位師団が44個、四単位師団が7個でした。 師団名に対応する歩兵連隊は以下の通りです。 師団名 隷下歩兵連隊 近衛師団 (近歩3、近歩4、近歩5) 第1師団 (歩1、歩49、歩57) 第2師団 (歩4、歩16、歩29) 第3師団 (歩6、歩34、歩68) 第4師団 (歩8、歩37、歩61) 第5師団 (歩11、歩21、歩41、歩42) 第6師団 (歩13、歩23、歩45) 第7師団 (歩25、歩26、歩27、歩28) 第8師団 (歩5、歩17、歩31) 第9師団 (歩7、歩19、歩35) 第10師団 (歩10、歩39、歩63) 第11師団 (歩12、歩43、歩44) 第12師団 (歩24、歩46、歩48

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