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photoと西成に関するNeanのブックマーク (2)

  • 中島敏フォトアーカイブ・解題 – 釜ヶ崎の記録は数多く存在するが、中島敏の写真には 他にはみられない特異性がある。

    釜ヶ崎の記録は数多く存在するが、中島敏の写真には 他にはみられない特異性がある。 まず、記録の期間である。中島さんの写真は、初期のものは1960年代末、最新のものは2010年代にまで至る。これだけの長い期間にわたり、ひとりの記録者が釜ヶ崎を撮影しつづけた写真群は、ほかにはない。これらの写真は、’60年代、’70年代、’80年代、’90年代、そして2000年代以降の、それぞれの光景を映し出す。それは、釜ヶ崎の戦後史をそのままに活写した記録に他ならない。 だがもっとも重要なのは、数多くの労働者とその生活・労働を記録した中島さんが、ひとりの釜ヶ崎労働者として生活してきたということだろう。つまりこれらの写真記録は、労働者自身による記録なのだ。それゆえ中島さんの写真は、労働者が生活するドヤ街のみならず、様々な労働現場や闘争の現場を、労働者の目線から記録している。それらの写真は、流動する労働者の身体を

    中島敏フォトアーカイブ・解題 – 釜ヶ崎の記録は数多く存在するが、中島敏の写真には 他にはみられない特異性がある。
  • 中島敏フォトアーカイブ - atom.log.osaka

    大阪万博にともない「あいりん総合センター」が出来るまで旧小字・東四條に「寄せ場」があり全港湾建設支部西成分会(1969年)暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘 1972年)の闘争等を経て諸権利の獲得に至る、1970年代のアルバム約10冊、夏祭りや越冬闘争も定着して夜間学校等の試みに至る1980年代末までの約10冊、ドヤ街の建て替えラッシュを経てバブル末期に日雇労働者が大量の野宿者化をみながら関西国際空港の建設飯場に至る1990年代半ばまでの約20冊からなる。 この期間をつうじて中島敏のカメラは釜ヶ崎の街頭にみる日常を切り取ると同時に、頭上に増殖する監視カメラ、ドヤ形態の変遷等を外観からとらえるのみならずドヤ内部の構造、単身生活者の衣住をはじめ、みずから身を寄せた労働現場あるいは飯場の様子・弁当の中身まで垣間見せてくれる。他に戦前の史料複写・暮石慰霊碑など『定点観測』等のための記録写真を多

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