ユーリー・ガガーリンが初の有人宇宙飛行を成功させ、ドイツにベルリンの壁が建設された1961(昭和36)年。米サンフランシスコの空港に降り立った日本人青年は目を丸くする。 「日本はこんな国と戦争していたのか。勝てるわけがない」 見たこともない広い道路には無数の乗用車が行き交い、日本で普及し始めたばかりのテレビや冷蔵庫は家庭に1台は当たり前。電灯が町並みや家の中をこうこうと照らしていた。 青年は原子力技術を学ぶため、ゼネラル・エレクトリック(GE)社の研修プログラムを受けるため渡米した若き日の松浦祥次郎(76)。班目春樹(64)の2代前の原子力安全委員会委員長を平成12年から6年間務め、日本の原発開発に黎明期(れいめいき)から身を投じた原発リーダーの一人だ。 昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」とうたった日本。が、松浦が目にした米国は、日本と比べものにならないほど豊かだった。 松浦の実