■日本浪漫派について 当時立原は原稿の依頼を通じて、雑誌『新日本』の中核メンバーであった日本浪漫派といわれる特定の指向を持った文学者グループとの親交を深めていった。 日本浪漫派の出現は昭和10年代の余りに象徴的な事件として語られている。その運動の実質的な代表者であった保田与重郎は、自ら日本浪漫派の核心を『没落への情熱』あるいは『イロニーとしての日本』としながら、彼ら独特の日本回帰のありようを語る *1。 それは廣松によれば、あらかじめ「己の頽廃の形式をまづ予想した文学運動」*2であり、究極的な「自己」意識の上昇によるそれ自体の没落、そしてデスペレートな「故郷」奪還をも意図していた。また大久保典夫は、当時の保田にとって日本の近代は、既に頽廃する以外に更生法のないものとして認識されていたのであり、ここにおいて「イロニーとしての日本」という現実認識が生まれる、とまとめている*3。 また「浪漫派」