18世紀末の朝鮮全図。18世紀および19世紀の朝鮮の地図では鴨緑江と豆満江を清と朝鮮の境界としている。一方で満洲および朝鮮を描いた西洋の宣教師による同時期の地図には、鴨緑江・豆満江より北に境界を置いている地図もありen:File:Kau-li_ou_Coree.jpg、韓国ではこれを間島の領有権の証拠と主張している 朝鮮王朝実録によれば、太祖李成桂の時代に北部女真族を帰順させ鴨緑江と豆満江(中国名、図們江)を国界としたとされる[1]。李氏朝鮮において「野人」居住地域である満洲に関する地理的知識は乏しく、この「野人」満洲族による侵攻(丁卯の役、丙子の役)後に興味が持たれるようになり、1697年の春、『盛京志』が清より持ち帰られようやく理解が進んだ[2]。 もともと満洲族の清朝は白頭山一帯を祖先の地として封禁地としていたが、徐々に朝鮮農民が入植した。1712年、国境を画定するため清と朝鮮の役人