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イタリア詩に関するainoutanoehonのブックマーク (2)

  • 詩が好き。書き手と読み手を結ぶ。 愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想

    今回は『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』の天野恵氏による「第3章イタリアの詩形」のまとめの言葉から、共感する言葉を拾い上げつつ思うことを記します。 前回、芸術の創作の根底には、伝統を踏まえた個性による創造力が必ずあることを記しました。現在の日の言葉の芸術をみつめると次のような傾向があるように私は思います。 1.短歌の創作。古来からの伝統にもとづく歌のかたちが出来上がっているので、形式において創造力を発揮できる余地はかなり限られている、語彙の意味とイメージの選択により個性を表現している。 2.詩・詩歌の創作。古来の漢詩とは断絶していて、和歌を否定し伝統を軽んじがち。西洋詩を模倣した新体詩、文語・口語自由詩は、伝統を踏まえることを捨て、調べ、歌、音楽を見失った。かたちがなく、どのようにも作れ、音楽性がなければ、行分け散文でしかない。 3.いわゆる現代詩。詩じゃない、歌じゃない、干から

    詩が好き。書き手と読み手を結ぶ。 愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想
  • ペトラルカの詩法(一)。字余りと字足らず。 愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想

    私にとって、イタリア詩は、その源流のラテン語詩、オイディウスの『変身物語』以降は空白地帯でした。 西欧の詩歌とその詩法を見つめなおそうと思い見つけて読むことができた出典の『イタリアの詩歌―音楽的な詩、詩的な音楽』はとても教えられることの多い発見に満ちた心を豊かに揺らしてくれるでした。 今回と次回はそのなかから、ペトラルカのカンツォーネを見つめます。 まず、ドイツ詩を見つめた際にも記しましたが、詩行中のメリハリ、音節の強弱がはっきりしていることを、日語のメリハリがまったくない個性と対照的で、鮮烈に感じます。 西欧人の自己主張の強さと、日人の控えめな奥ゆかしさの違いが詩歌に浮き出ていることから、詩歌は心の表現だという当たり前だからこそ大切なことを再認識させられます。 現在は西欧人に近づくことを進歩、論理的な押しの強い主張を良しとする風潮に染まっていますが、私は日古来の奥ゆかしさ、他に譲

    ペトラルカの詩法(一)。字余りと字足らず。 愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想
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