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物のあはれに関するainoutanoehonのブックマーク (3)

  • 歌え。歌道と物のあはれ

    居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫掲載頁)しています。 最終回は、「歌道と物のあはれ」を宣長がどのようにとらえていたか、私が感じ思うことを記します。 1.歌道、歌物語 居宣長は、『源氏物語』は物のあはれの限りをつくし描いていて、この物のあはれをおいて歌道はない、と繰り返し次のように強調します。深く心に感じること、大切なのはただそれだと。 また宣長はこの物語のすぐれた文章が、心の感動をより深めていると述べ、その特徴を的確に次のように記しています。 ◎原文 「歌道の意をしらんとならば、此の物語をよくよくみて其のあぢ

    歌え。歌道と物のあはれ
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。歌え。歌道と物のあはれ。
  • 恋と物のあはれ

    居宣長(もとおりのりなが)の『紫文要領(しぶんようりょう)』を通して、『源氏物語』をより深く読み感じ取ろうとしています。引用文の出典は、『紫文要領(しぶんようりょう)』(子安宣邦 校注、岩波文庫、2010年)です。章立ての「大意の事」と「歌人の此の物語を見る心ばへの事」から任意に引用(カッコ内は引用箇所の文庫掲載頁)しています。 3回目の今回は、「恋と物のあはれ」について、宣長がどのようにとらえていたか、私が感じ思うことを記します。 居宣長は、藤原俊成の歌を引いて、恋せずに物の哀れの忍びがたさをふかく感じしることはできない、と言います。だからすぐれた歌も恋の歌こそに多いのだ、と。 詩人の萩原朔太郎も『詩の原理』で同じことを熱く語っていることは、以前このブログで記しました。(萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし。) 続けて宣長は物語についても語ります。このあたりの文章、と

    恋と物のあはれ
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。恋と物のあはれ。
  • 『源氏物語』物のあはれ

    ひとりの詩人として私なりの感性で、『源氏物語』を「蛍」の巻の物語論を通して、読み取り感じ取ろうとしました。 汲み尽くせないほど豊かなこの物語を、居宣長(もとおりのりなが)は二百数十年前にこよなく愛しその質に迫りました。彼の著述を通して、さらにこの美しい絵巻についての思いを深めたいと思います。 彼は67歳で『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』としてこの物語論を集大成しまとめました。ただその質論の部分は、34歳でまとめた『紫文要領(しぶんようりょう)』で既に「物のあはれ」を核心概念として確立していました。 まず初めに、『源氏物語玉の小櫛(げんじものがたりたまのおぐし)』から、「物のあはれ」について宣長が要約した箇所を以下に引用します。 ◎訳文 「物のあわれを知るとは何か。「あはれ」というのはもと、見るもの聞くもの触れることに心の感じて出る嘆息(なげき)の声で、今の世の言葉

    『源氏物語』物のあはれ
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。『源氏物語』物のあはれ。
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