タグ

日本と社会に関するashiofujisawaのブックマーク (2)

  • 日本人は何を失ったのか : 池田信夫 blog

    2010年04月04日00:28 カテゴリ科学/文化人は何を失ったのか ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』(以下D-G)は、ドゥルーズの著作として紹介されることが多いが、書を読むと、その基的な発想はガタリのものであることがわかる。書はD-Gの執筆の材料となったドゥルーズあて書簡などをランダムに集めた草稿集で、一般の読者にはおすすめできないが、D-Gは20世紀のもっとも重要な書物であり、現在の日の状況を考えるヒントになるような気もする。 D-Gは副題が『資主義と分裂症』とあるように、分裂症(今日の言葉では統合失調症)を家族関係や個人の意識の中で考える精神分析を否定し、分裂症をいわば資主義の鏡像と考えるものだ。伝統的な社会が個人を共同体に埋め込むコード化によって安定を維持してきたのに対して、君主制国家はそれを広域的な超コード化によって軍事的に統合するシステムをつく

    日本人は何を失ったのか : 池田信夫 blog
  • 日本は小国になれるか - 池田信夫 blog

    おとといの記事のコメント欄で「日はもう成長を追求するのはやめて、小国としてのんびりやろう」という考え方についての論争が続いている。私は個人的には、そういう路線が可能なら、それもいいと思う。最近、行動経済学で議論されているのは、新古典派経済学の前提としている富の最大化という目的関数が、人々の幸福とあまり関係がないという問題だ。特に日はそのギャップが大きく、一人あたりGDPは(落ちたとえはいえ)世界で20位前後だが、幸福度は90位だ。 これに対して経済学者の普通の答は「幸福度なんて曖昧な基準はお遊びにすぎない」というものだが、そうだろうか。実は経済学の目的関数も、当は富ではなく効用という曖昧なものだ。それが市場で需要として表明されることで富に変換されることになっているが、これでは市場では得られない「安心」とか「のんびり」といった価値への評価は計測できない。モノの需要が飽和する一方、環境

  • 1