3.11と後読みに関するatman_soshiのブックマーク (1)

  • カタストロフに寄り添う映像──震災ドキュメンタリーをめぐって

    私事から論を起こして恐縮だが、私は大阪に生まれ育ち、中学高校の6年間、神戸の学校に通った後、1993年4月に大学入学とともに東京で暮らしはじめた。私は1994年1月17日の阪神淡路大震災を経験しなかった。その後、研究者としての修行期間の大半を東京で過ごした後、2009年4月に大阪の大学に着任し、現在にいたっている。私は2011年3月11日の東日震災以降の東京での狂騒を経験していない。 ほんの1、2年ほどの時間のかけちがいで経験していたかもしれなかったことを経験しなかった、というこの経験は、災害について思いをめぐらそうとする際に、私になにがしか独特の負荷を強いているように思う。けれども、それは同時代の災害を経験しなかったあらゆる人に多かれ少なかれ当てはまる条件を範例的に示しているにすぎない。《私はそこにいたかもしれない/私はそこにいなかった》。同時代の災害を映像として眼にするとき、その映像

    カタストロフに寄り添う映像──震災ドキュメンタリーをめぐって
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