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津久井玲子とJSTFに関するbaboocon19820419のブックマーク (2)

  • 【シューメーカー 橋本公宏】日本最高峰の靴職人、関信義の秘蔵っ子〜前編〜

    イセタンサローネでのポップアップストアの開催、リニューアルオープンした阪急メンズ東京のビスポークサロンへの出店。知る人ぞ知る手製工房のJ.S.T.F.が今年、表舞台に躍り出ました。この秋にはJ.S.T.F.をコアメンバーとするショップが青山にグランドオープンします。J.S.T.F.の親方、橋公宏の物語──。 そのは、オーラを放っていた 生まれ育ったのは口より先に手が出る(笑)、羽田の漁村地区。勉強はできなかったね。通知表はそれこそアヒルの行列。ひところチーマー狩りってニュースにもなったでしょ。高校のころはあれ、やっていました(笑)。首謀者じゃないよ。駆り出されただけ。 なんとか高校を卒業するも1年はフリーター暮らし。そのとき知り合った水道工事の親方に声をかけられて、2〜3年、水まわりの仕事をやった。おれがいうのもなんだけど、見上げた親方でね。別にこの仕事にこだわることはない。これだと

    【シューメーカー 橋本公宏】日本最高峰の靴職人、関信義の秘蔵っ子〜前編〜
  • 【シューメーカー 橋本公宏】生き様まで師匠の生き写し〜後編〜

    そののオーラに吸い寄せられるように弟子入りを果たし、徹底して鍛えられた橋公宏。しかし立ち上がりはけして順風満帆ではありませんでした。ようやく花開こうとしている現在を語ろうと思えば、たしかな仕事ぶりもさることながら、人情のかたまりのようなキャラクターも見逃せません。東日大震災の翌日、早朝から自転車をかっ飛ばして取引先の革屋や材料屋、なじみの呑み屋を1軒1軒たずねてまわったのは いまも語り草になっています。 下請けを選んだ、痺れるような生き様 独立当初こそ叔父貴のところに居候して そこんとこのをつくっていたから なんとかなったものの、仲違いして(笑)浅草に来てからは しばらくえなかった。 面接にさ、自分でつくったをもっていったら これがとんでもない社長でさ。それくらいのなら うちにはつくれるのが10人はいるっていいやがったのよ。その場で履歴書破いて帰ったね。 履歴書が塵と消えたの

    【シューメーカー 橋本公宏】生き様まで師匠の生き写し〜後編〜
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