1943年(昭和18年)夏、日本の敗退が続く中、二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻しかないと、人間魚雷を構想。その後、戦局はさらに悪化し、海軍省はついに試作兵器を完成させ、1944年(昭和19年)8月、正式兵器として採用された。祖国を守りたいとの一心から、特攻兵器「回天」は誕生したのである。 そして同年9月、試験発射場のあった大津島に回天基地が開設され、全国から多くの若者たちが集まってきた。 終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は1375人にも及んだ。そのほとんどが兵学校・機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者たちだった。年齢も17歳から多くても28歳、大多数は20歳前後の若者であった。 回天による戦没者は、搭乗員、整備員他145名、没時の平均年齢は21.1歳である。 出撃隊が編成され出撃が決まると、最後の別れのため、我が家に帰ること
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