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戦争に隠された「震度7」 1944東南海地震・1945三河地震 著者:木村 玲欧 出版社:吉川弘文館 ジャンル:社会・時事・政治・行政 戦争に隠された「震度7」―1944東南海地震・1945三河地震 [著]木村玲欧 1944年の東南海地震、45年の三河地震。いずれも震度7相当の大きな揺れに襲われ、津波も発生し、多くの犠牲者を出した大災害だ。戦時下の日本。物資が少ない中での支援・復旧は容易ではなかった。だが、さらなる問題が被災地を襲う。この二つの災害は、政府及び報道機関によって「隠された」のだ。 死者・行方不明者がそれぞれ千人を超える大災害。だがいずれの場合も、翌日の新聞では「被害微小」と、事実と異なる報道がなされた。政府も報道機関も、被害状況は把握していた。にもかかわらず、戦力低下が国民や外国に知られることを恐れ、検閲の徹底を優先したのだ。 事前検閲が励行され、被害に関する数値は留保された
慰安所の前で巻脚絆(ゲートル)を外し順番を待つ兵士たち 場所:中国、時期:1938年頃 出典:村瀬守保写真集『私の従軍中国戦線 一兵士が写した戦場の記録』(初出:日本機関紙出版センター,1987年)新版:2005年 慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。 それら口述資料*1を用いて個々の事例を考察していきます。 以下、 引用文の中略には「……」を入れています。強調、改行は引用者によります。 最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。
戦死・戦傷病死・行方不明:20,292[2] 戦傷病:不明[2] もしくは 戦死傷病合計:53,000[3]~60,643[4] このうち戦死者30,502[5] インパール作戦(インパールさくせん、日本側作戦名:ウ号作戦〈ウごうさくせん〉)とは、第二次世界大戦(大東亜戦争)のビルマ戦線において、1944年(昭和19年)3月に大日本帝国陸軍により開始[8]、7月初旬まで継続された、イギリス領インド帝国北東部の都市であるインパール攻略を目指した作戦のことである。作戦はビルマ防衛のために敵の拠点を攻略するといった“攻撃防御”や援蔣ルートの遮断という戦略目的に加えて[9]、イギリスの植民地インドに進攻することによって、独立運動を誘発しイギリスの植民地支配体制に打撃を与えるという政治的目的もあった[10]。 通俗的には、牟田口廉也中将の強硬な主張により決行された作戦として知られる。兵站に難があり、
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