聞かせてもらったのは、米軍統治下を含む1962~78年ごろの話。5人前後の男の子がお菓子をもらいに行くことが多かったという。狙いは忍びこんだ基地内にある一軒家か、民間地の「外人住宅街」だった。 米軍キャンプ瑞慶覧西側の宜野湾市伊佐の合言葉は「ちくちん」。東側の同市野嵩は「ちこちん」。中間の同市普天間では両派が混在した。 「パイプライン通り」沿いに外人住宅街があった市大山は、同じ小学校区でも「ちくりん」「てぃくてぃん」「てぃこてぃん」の3種類があった。同じ通り沿いの同市真志喜は「てぃくてぃん」。 米軍牧港補給地区(キャンプ・キンザー)の関係者が住んでいた浦添市港川は、照屋恵一さん(56)によると「ちくとぅりーん」。同じように外人住宅街が広がる北谷町北前は「とぅーかーとぅりー」で、だいぶ英語の発音に近い。 ■いつも空腹 貴重な催し 工夫こらし仮装 子どもたちはいつも空腹だった。1972年の復帰
![「ちくちん」や「ちくとぅりーん」 半世紀前「トリック・オア・トリート」の言い方 沖縄版は9種類判明 「ハロウィーン」も別の呼び方だった | あなたのナゼにココホル取材班 | 沖縄タイムス+プラス](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/065b446f635629e9b2a7e8ef0edd00a203d395e1/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Foki.ismcdn.jp%2Fmwimgs%2F2%2F6%2F1200wm%2Fimg_260286cdd04090e214bfee43a8a45855559590.jpg)