自然の自は、おのずからということであります。人の側のはからいではありません。自然とは、そのようにさせる、という言葉であります。そのようにさせるというのは、人の側のはからいではありません。それは如来のお誓いでありますから、法爾といいます。法爾というのは如来のお誓いでありますから、だからそのようにさせる、とい うことをそのまま法爾というのであります。また、法爾である如来のお誓いの徳につ つまれるために、およそ人のはからいはなくなりますから、これをそのようにさせる、といいます。これがわかってはじめて、すべての人ははからわなくなるのであります。ですから、義の捨てられていることが義である、と知らねぼならないといわれます。言葉をかえていいますと、自然というのは、元来そのようにさせる、という言葉であります。阿弥陀仏のお誓いは、もともと人がはからいを離れて、南無阿弥陀仏、と仏をたのみたてまつるとき、これを
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