考と昔話に関するcampyのブックマーク (2)

  • DQNの教育問題について、またはわたしもDQNであるということ - はてなの鴨澤

    親子間での扶養や援助の問題がいろいろ話題に登るようになった。伝統的な日の価値観ではどうこう、と言われているが、基的に「忠孝」というやつは弱者を保護せず、自由を増やさず、不幸を防止しない。 親子の絆は美しいが、親子をあまり強く関連付けないほうがいい。これは社会システム的にもそうだし、個人の意識としてもそうだ。個人を単位に考えたほうがずっと良い。 不幸の多くは人間関係、特に親子を引き離せないからこそ起きる。一番大きいと思うのが教育の問題だ。 99年に交通事故で3ヶ月近く入院したことがある。整形外科病棟というのは交通事故とヘルニアと老人が三大勢力で、交通事故はバイクが大部分。このため他の病棟に比べ平均年齢が低く、雰囲気も明るめだ。オレはそこで長期入院中の高校生に九九を教えたことをきっかけに、そういう家庭の教育問題を考え始めた。そして信じられないほどたくさんの家庭が、「知」というものとまったく

    DQNの教育問題について、またはわたしもDQNであるということ - はてなの鴨澤
    campy
    campy 2012/05/29
    "社会は知的に分断されながら繋がっているのだ。この連続性は恐ろしくもあり、救いでもある。"/子供にもっと多様な人と会わせることで選択肢の広さを見せたいよね。親の干渉をまったく受けないと確信できる人達と。
  • 2009-03-08

    目を指で少し強く押さえると、白黒のうねる世界が見えてくる。 市松模様の海と、市松模様の空の、永遠に広がり渡る世界。 水平と地平はその交わる線で清清しい黒を補い合う。 市松模様の両者は、まるで粘った液の沸騰するみたいに、膨らみしぼみ刺激し合い、互いを強め弱め合い、波のようだが伝わらず、粒のようだが動かせず、命のように蠢いて、心のように裏切って、しかしそれも平衡するような穏やかさがあり、調和の名の下にルールの無くなった遊びを続ける・・・ 赤紫の閃光が見え始める頃、目の痛みに耐えかねてその世界を出る。 長時間勉強したり文章を書いてたりパズルを解いてたりすると、口の中にカピカピのごはんを詰め込まれているような感覚に陥る。これはあくまで感覚で、具体的な感触ではない。むわあ、ごはあ、ってなってきて頭を左右に振らないと治らない。そしてしばらくするとまたやってくる。こういうときは一度シャワーを浴びるなり窓

    2009-03-08
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