「善意を前提にしたシステムではうまくいかない」という指摘はよくなされるし、基本的には異論もありません。 万人が善人でなければ(そうした幻想を保たなければ)回らないような仕掛けなら、それはうまくいかないだろうし、賢い方法ではないでしょう。 ですが、この指摘がいつの間にか「価値判断そのものを放逐したシステムでなければうまくいかない」という話にすり替えられている場面が、時々みられます。 善意を前提とした仕掛けではうまく回らない。しかし、そのことと、価値判断がシステムにとって無用であるかどうかは、別のお話です。 このようなすり替え、あるいは過剰な援用が為される背景には、「善意」なるものが、純粋に考えられすぎて、幻想のための幻想に堕していることがあるのでは、と考えています。 「善意」というのは、もう完全無欠にピュアな善意であって、ちょっとでも疚しい心が入り込んでいたら、それは「偽善」である、とでもい
![善いことをしても許してやろう](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/e7405af20123f793223b68829a4b5887f00f858c/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Farabic.kharuuf.net%2Fwp-content%2Fuploads%2F2016%2F06%2Fhitsuji2.png)