1867年、ツィオルコフスキーが10歳の時に猩紅熱に罹り、耳が聴こえなくなってしまう病に侵されながらも独学で数学や天文学を学び[4][5]、1903年に発表した彼の代表的な論文である『反作用利用装置による宇宙探検(Исследование мировых пространств реактивными приборами)』の中で人工衛星や宇宙船の示唆、多段式ロケット[2]、軌道エレベータなどの考案や、宇宙旅行の可能性としてロケットで宇宙に行けることを証明した業績から「宇宙旅行の父」と呼ばれる[6]。 また1897年には「ロケット噴射による、増速度の合計と噴射速度と質量比の関係を示す式」である「ツィオルコフスキーの公式」を発表し[7]、今日におけるロケット工学の基礎を築いたが生涯の大半はカルーガで孤独に暮らしていたため、存命中にツィオルコフスキーの業績が評価されることはなかった[8]。なお