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言葉に関するci502のブックマーク (2)

  • 乱暴な言葉遣いの人間は差別する。 - Something Orange

    先日、Twitterにこのようなことを書いた。 特にネットでは、ぼくは意見の正否「だけ」で相手を判断するつもりはもはや全くない。下品な人間の相手をすることはいやだし、ひとの悪口を安全なところから吐く人間にかかわるのもいやだ。しらないひとと不毛な議論をする意欲もない。それで当然だと思っている。そうすべきでない理由はあるだろうか? 「意見と人格は切り離して考えるべき」「嫌なやつのいうことでも正論は正論」という考え方があることはわかるけれど、逆にいうと「いくら正論をいっていても嫌なやつは嫌なやつ」であるわけで、そういう人間は遠ざけたい。遠ざけることが逃げだとは思わないし、閉塞だとも感じない。精神衛生上の問題。 まあ、「意見だけはとりあえず受け入れて、その人物は遠ざける」というのがいちばん適切な対応かな……。「批判は受け容れるべき」という言葉には条件付きで賛成できるけれど、「批判は無条件で受け容れ

    乱暴な言葉遣いの人間は差別する。 - Something Orange
  • 浜崎歌詞に「ケータイ」が登場しないという事実を我々は決して忘れてはならない - kenzee観光第二レジャービル

    kenzee「浜崎あゆみ「Rock'n Roll Circus」vs「to LOVE」問題に移る前に、前から思っていた素朴な疑問を呈してみたい。速水さんが再三、の中で述べているように浜崎の音楽とケータイ文化は密接にかかわっており、二人三脚でこのゼロ年代を駆け抜けた。そのワリには浜崎の歌詞にはケータイが登場しないのだ。たとえば恋人から着信があってうれしいとか一日たってもメールが返ってこない寂しい、とかそういう描写は浜崎ソングには一切ない」 司会者「「何回かけても繋がんないんだけどー」「ゴメーン地下街歩いてたんで電波入んなかったんじゃないかニャー」「最近の地下街余裕で電波入るわヴォケ!」とかそういうリリックがあってもよさそうですが浜崎にはそういうケータイ的なコミュニケーションがまったく描かれてこなかった。これはどうしてだろう?」 kenzee「たとえば浜崎は2001年ごろ、ツーカーのイメージ

    浜崎歌詞に「ケータイ」が登場しないという事実を我々は決して忘れてはならない - kenzee観光第二レジャービル
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