七里の歌謡曲日記8 ガロ「学生街の喫茶店」、あるいはすぎやまこういちについて だが(この逆接は杉本彩に掛かっている)、歌謡曲の幸福な夢が、どのような危険と対価になっているのか、十分意識しておく必要があるのだろう。感受性の一元論は、つねに退嬰の夢と表裏になっている。否定神学と多様性の「倫理」を超えて、感受性による選択の問題を、あるいはひとつの詩学を語ろうとしてきたわれわれの歌謡曲論は(大変なことだ)、ここではっきりと感受性の暴力と、ファシズムの危険と向き合う必要がある(相対主義的なシミュラークルの世界に抗して、自分と世界を接続しようとする悪しきセカイ系と決断主義の論理に欠けているのは、「なぜ勝利するのは自分でなくてはならないのか」という問いであり、つまり暴力への問いなのだ[だから、それは素朴な実存主義に陥る]。すぐれたセカイ系作品は、無意識的にこの問いに応じようとしているようである)。 ヒト