役者似顔絵で一世を風靡した浮世絵界の大立物、勝川春章が1792(寛政4)年に没した。 78(安永7)年、19歳で勝川派の門に入り、翌年、勝川春朗と号して、浮世絵界にデビューを果たしていた北斎にとって、師匠の死は痛手だった。細判役者絵や黄表紙、洒落本の挿画工として勝川派で兄弟子の春好、春英に伍して頭角を現してきた北斎は、師匠没後の2年後、94(寛政6)年頃から兄弟子たちの嫌がらせを受け、ついに爆発。喧嘩の挙げ句、勝川派を追い出される。 その原因は、北斎が幕府御用絵師・浜町狩野家5代融川寛信(ゆうせん・ひろのぶ、1778-1815)の門に入り、狩野派も学んでいたことにあるようだ。勝川派の門人でありながら、官学の狩野派にも首を突っ込んでいたことが、兄弟子の反感を買い、勝川派を追われたのだと考えられる。 日光東照宮の彩色修理を手伝うが、不和を生じさせ追放される 北斎は、勝川派を追われる前後、狩野派