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Historyに関するdonayamaのブックマーク (4)

  • ラノベ史探訪(2)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【後編】

    ラノベ史探訪(1)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【前編】 に続き、今回の【後編】では名称公募の経過からその決定までの流れを追っていきたいと思います。 【応募多数による発表延期】 「最優秀作品には賞金100万円」という告知で始まった「角川文庫・青帯」の名称公募。やはり高額な賞金のためか、かなり多くの応募があったようです。角川書店は当初、結果発表を1988年10月下旬の「朝日新聞」で行うとしていました。そこで実際に当該時期の同新聞を確認したところ、意外なことに、発表時期を延期する以下のような告知が掲載されていました。 (「朝日新聞」1988年10月30日朝刊掲載の角川文庫広告より) 「角川文庫・新シリーズ(青帯)のネーミング募集」に多数のご応募をありがとうございました。応募多数のため現在整理検討中です。勝手ながらネーミングの発表は当初の10月下旬を12月下旬予定に延期させていただ

    ラノベ史探訪(2)-「スニーカー文庫」:名称の公募から決定まで【後編】
    donayama
    donayama 2012/01/28
    なるほど。ぼくがこの手のに手を出すころにはすでにスニーカー文庫という名前になっていたけど、ギリギリのタイミングだったようだ。聖エルザ~がいろいろ懐かしいw
  • asahi.com(朝日新聞社):長篠・設楽原:下 揺らぐ「三段撃ち」説 - 東海の古戦場をゆく - トラベル

    長篠・設楽原:下 揺らぐ「三段撃ち」説2009年8月13日10時42分 分業での連続撃ちを行う林利一さん=愛知県新城市 徳川家康・織田信長の連合軍3万8千と武田勝頼軍1万5千が激突した天正3(1575)年5月21日の「長篠・設楽原の戦い」は、連合軍の圧倒的な勝利で終わる。武田方は山県昌景、馬場信春ら名だたる武将を失った。 連合軍の勝因についてはこれまで、武田騎馬隊の進撃を防いだ馬防柵(さく)と、鉄砲3千丁の三段撃ち(千丁ずつ交代の連射)、勝頼の無謀な突撃命令などがあげられてきた。 小瀬甫庵(おぜほあん)が江戸時代に書いた「信長記」をもとにした三段撃ちは通説のようにされてきたが、近年は疑問を呈する声が多い。太田牛一の「信長公記」に記述はないし、犬山城白帝文庫や徳川美術館など所蔵の「長篠合戦図屏風(びょうぶ)」にも三段撃ちの様子は描かれていない。 なぜ連合軍は勝ったのか? 兵力で劣る武田軍が無

  • 各日本語入力プログラムの特徴(MS-DOS時代)

    このページは、MS-DOS上で動作した日本語入力プログラムの特徴を、リコーの太田純さん提供の文章と画面写真で紹介しています。 PCの普及が始まったのはZ80などの8ビットCPU時代からだが、そのころのPCはせいぜい64KB程度のメモリーしか利用できず、日語処理を行うにはまだ非力だった。8086などの16ビットCPUが登場するとようやくまともな日語処理が可能になり、さまざまな日語ワープロや日本語入力プログラムが登場した。それをささえたのがNECPC-9801シリーズであり、またPC-9801の標準OSとなったMS-DOSだった。 MS-DOSは「マイクロソフトのディスクオペレーティングシステム」の略で、コマンド体系は8ビットPCのOSであったCP/M、OSとしての機能はUNIXに大きな影響を受けている。当時は640KB程度のメインメモリーと1.2MBフロッピー2台という構成が標準的だ

  • asahi.com(朝日新聞社):桜田門外の変、座布団は見ていた 直弼の遺品公開 - 社会

    井伊直弼の「血染めの座布団」(手前)と肖像画=彦根市里根町の天寧寺  大老・井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された時、かごに敷かれていたといわれる「最後の座布団」の特別公開が28日、滋賀県彦根市里根町の天寧(てんねい)寺で始まった。  寺には、彦根藩が桜田門外の血染めの土や着物を埋めて建てた供養塔がある。遺品の座布団は、同寺が直弼の命日としている3月28日から、毎年公開されている。  時の大老らしく、座布団の中央には虎の毛皮が張られる豪華さ。ここに直弼の血痕があったとされているが、今となっては見えない。4月8日の午前中まで、無休。

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