407 名前: ダイアンサステルスター(東京都)[] 投稿日:2009/08/02(日) 11:22:08.64 ID:o2UNaH9u >>231 STARTとSELECTのボタンをつけるより、マイクの方が断然安かったから。 横井軍平は山内組長から「1万円未満で売れ」と言われてファミコンの開発をはじめた。 途中で組長に泣きついて1万5千円までに変更してもらったが、それでも異常にきつい。 ファミコンのカラーになったアズキ色は、この色のプラスチックが一番安かったから。 6502カスタムなんていう日本じゃまったくなじみの無いCPUになったのは、 これを作ったリコーが販売に失敗して倉庫に山積されてたから(買い叩いたわけだ)。 2コンマイクは、そういう意味では、ちょっと贅沢なものではあった。 当初、コストの問題から、横井さんは2コンからSTARTとSELECTをはずして、 ノッペラボウにしておこう
ファミコンブーム真っ只中の80年代後半の日本において、ファミコンはまさに家庭用テレビゲーム機の代名詞だった。 ◆当時のゲーム屋事情◆ 当時のゲーム屋は「ファミコン」という看板さえ掲げておけば商売ができたのだ。それはスーパーファミコンが発売されても同じだった。ゲーム屋は相変わらず「ファミコン」の看板を掲げて何食わぬ顔。スーパーファミコンだってファミコンじゃん。なにがいけなの。と言った調子だ。 さらに年月は経ち、セガサターン、プレイステーションが発売された。いわゆる次世代ゲーム機の時代に突入したのだ。しかしゲーム屋は「ファミコン」の看板をおろさない。べつに誰も困ってねえじゃん。と言った調子だった・・・・・・ ちょうどその時代(1994年頃からファミコン再評価時代に移るまでの数年間)はファミコン氷河期だった。誰もファミコンなんか見向きもしてなかったから、よくディスカウントショップのワゴンに1本1
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