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2004年に講談社から出版された『網野善彦を継ぐ』は、中沢と赤坂の網野善彦追悼の文を土台にしておこなわれた対談である。赤坂は、「あとがき」で「もとより、網野善彦を継ぐ、といった物言いがまったく不遜なものであることは承知している。」と述べているので、少々期待した。期待は全くはずれた。中沢はともかく、赤坂は、吉本隆明との対談(『天皇制の基層』作品社 1990年/講談社学術文庫 2003年)では、明らかに吉本を動揺させていた。幇間糸井重里の猿回し芸にのせられていい気になっている吉本が、きちんとした教養のある者と対面して、狼狽し、(赤坂の話は)断じて承伏出来ないと、虚しくも身構えた(虚勢)。どうやら、「断じて承伏出来ない」と、狼狽を裏腹に断固とした口調で表した吉本の態度に、赤坂は退いてしまっていたようである。 中沢と一緒になって、網野善彦の足を引っ張るような話を続ける赤坂は、吉本を狼狽させていた赤
最近、海外から帰ってきた研究者に「福島は終わったことにされている」と聞いて、ショックを受けました。世界のメディアにとっては、福島はすでに第二のチェルノブイリなのかもしれません。福島の声、東北の声、日本の声が、国際社会には届いていないのです。わたしたちが何を思い、何に苦悩し、何と戦っているのか、その姿がまったく伝わっていない。 チェルノブイリ原発事故では、ヨーロッパ全土に汚染が広がりました。25年たっても、まだ高い放射線量を示している場所もある。いまも食品の放射線量を計測している。いわばヨーロッパの人たちは、ずっと放射能汚染とともに生きてきたのです。だから、チェルノブイリとフクシマとはまっすぐに繋(つな)がれたのでしょう。「ノーモア・フクシマ!」の声が、いくつかの国を「脱原発」へと舵を切らせました。 ここで確認しておいた方がいいと思うのは、すでにわたしたちもまた、放射能汚染とともに生きざるを
わたしたちは多かれ少なかれ立場とか利権というものに縛られています。社会の枠組みが大きく転換しつつあるいま、そういうものにとらわれずに、未来に向けての新しい言葉をどうやって紡ぎ出すかが、それぞれの現場で問われているように感じています。 6月25日に提言をまとめた政府の復興構想会議でも、わたしを含めた委員それぞれが、立場とか利権というものを背負わずに、どれだけ自立した人間として議論の場に参加することができるかが問われました。あの提言を「霞が関の作文」と評する人もいますが、会議では官僚の発言は一度も許されませんでした。検討部会を通じて省庁をはじめいろいろな人に情報を出してもらう仕組みですから、拒絶しているわけではない。しかし、直接的には外から意向を反映させることができない仕組みでした。 わたしたち委員でさえ、立場や利権を乗り越えて発言するということが、言葉に説得力を持たせるための最低条件でした。
東日本大震災による被災地の復興策が、さまざまに論じられていますが、そのなかで文化というテーマをどう扱うかについては、なかなか見えにくいところがありました。震災から2、3カ月は、生きのびるために何をすべきかが、当然ですけれど最優先でした。ようやく、分断されて、崩壊しかけているコミュニティや、人と人との絆などを再建するために、文化が必要とされる段階が訪れようとしています。被災地を歩きながら、そう感じています。 三陸のある漁村を訪ねました。1人の漁師が瓦礫(がれき)のなかから鹿踊(ししおど)りの太鼓と衣装を探し出してきて、泥を落として踊ったのです。村の人たちはそれを見て、涙を流して喜んだという。そのときはじめて、自分たちが生き延びたこと、これからも生きていくのだということを、みなが実感したのかもしれません。 とりあえずは食べものや住むところが必要です。でも、これからどうやって生きていくのか、それ
〈3・11〉から3カ月が過ぎて、東京のメディアはあらためて、東北が遠い・見えない・わからない、ということに気がつきはじめたようです。僕自身も、東北の被災地を少しずつ歩きながら、これまで見えていなかったことに気づかされたりしています。 先日、ある村を訪ねました。被災された方たちからの聞き書きを始めているのです。山ぎわの農家に案内されると、庭に大きなプレハブの建物がありました。そこは機械の部品を作る工場でした。内職のような手さばきで複雑な配線を編む仕事をしているのは、みな近所の女性たちでしたが、10年以上もやっているというから熟練工ですね。衝撃を受けました。何に驚いたかといえば、時給300円程度だというのです。ほとんど『女工哀史』のような光景だと思いました。そして、東北はアジアにつながっているとも感じました。 政府の復興構想会議でも、「東北はものづくりの大切な拠点だ」という話がくりかえし出てき
『東北学』の提唱者が緊急寄稿 見届けること、記憶すること、記録に留めること。 フクシマから世界史そのものを変容させよう。 * * * そのとき、わたしは東京の自宅に近い国分寺にいた。駅ビルの三階の喫茶室で、産経新聞の記者Sさんから岡本太郎についての取材を受けていた。大きく揺れた。店内はいくらか騒然となった。コーヒーがテーブルにこぼれた。やがて、緊急の放送が入り、駅ビルから出るように促された。誘導されて、ほかの客たちといっしょに非常階段を降りていった。駅前には、静かな群衆がいて、ひそひそと言葉を交わし、黙って空を仰いでいた。そのとき、わたしはふっと、どこか遠くの町でSF映画のような、あるいは見たことのない悪夢のような光景が、すでに始まっているのかもしれない、と思った。わたしはそれを口にして、あわてて心のなかで打ち消した。 余震らしき揺れがくりかえしやって来た。携帯は通じない。携帯メ
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