砂山は、小さな小さな砂粒からできています。もしも、気まぐれに、そこから数粒の砂を除いても、砂山は変わらず、砂山のままに見えますね。 さてその行為を、何度も繰り返したらどうなるでしょうか。最後に一粒だけの砂が残されているときに、我々はそれを「砂山」と呼べるのでしょうか。 いえ、まさか。それは砂山ではありませんね。ではでは、砂粒が何粒だったら、それを砂山と思えるのでしょうか?砂山が砂山に見えるための最小の砂粒の数が、どこかに存在するのでしょうか? この設問は「砂山問題」と呼ばれ、論理・哲学などを考えるときに引き合いに出されます。概念を構成する最小単位を考えるのは、とても興味深いことです。 梟書茶房を作った二人の男は奇矯です。菅野眞博は「珈琲」を、柳下恭平は「本」を、それぞれに偏愛し、彼らは人生という砂山から、それらが取り去られれば、どれだけ大量の砂粒が残っていても、それを人生と呼びません。 そ