フィギュアスケート
「緊張しました。すみません」と演技後に漏らした羽生だが、表彰台ではさわやかな笑顔を見せてくれた。銀メダルのパトリック・チャン(左)、銅メダルのデニス・テン(右)と共に。 2月14日、男子シングルのフリーで羽生結弦がトップを保ち、金メダルを獲得した。19歳の羽生は、男子五輪チャンピオンとして史上2番目の若さである。日本のフィギュアスケート金メダルは2006年トリノ五輪での荒川静香以来、2個目。男子としては史上初の快挙だ。だがその勝利への戦いは、決して楽なものではなかった。 「これが五輪というもの」とオーサー・コーチは言った。 「最初の4回転サルコウで転倒してしまい、続いた4回転トウループは降りたのですが、次の3フリップで失敗した。もう金メダルは遠ざかった、という気はしていました。後半になって足が重くなり、マイナスな気持ちが出てきてしまった。終わってから、今回は金メダルはないかなと思いました」
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団体戦の直後、「60点くらいの出来です。もっとちゃんとできるのに、本番で力を出し切れないのは、まだまだということです」とコメントし、次回の五輪挑戦に意欲を新たにしていた木原龍一。 五輪のフィギュアスケート団体戦でチーム日本に貢献し、個人戦も18位と健闘した高橋成美&木原龍一ペア。'98年以来、16年ぶりとなる日本人ペアの2人が五輪に出場するまでには、奇跡的ともいえる出会いと成長があった――。 銅メダル獲得のペアを解消して、新たに挑んだ五輪。 高橋は、カナダ国籍のマービン・トランとペアを組み、ジュニア時代から国際舞台で活躍してきた。'12年世界選手権では日本ペア史上初となる銅メダルを獲得。五輪での活躍の期待も高まり、トランは一時期、日本国籍取得を目指したほどだ。しかし'12年オフ、高橋がケガで数カ月間リンクから離れることになると、練習方針のズレもあり、チーム解散を決意した。 一方、日本スケー
女手一つで育ててくれた母に恩返しをするため、大舞台に乗り込んだ。フィリピン初のスケート代表としてソチ冬季五輪のフィギュア男子に出場するマイケル・マルティネス選手(17)は「五輪では母に誇りに思ってもらいたい」と胸を躍らせている。 1月30日朝にソチ入りし、同日午後にほかに誰もいない試合会場での公式練習で「ロミオとジュリエット」の曲に合わせて氷の感触を確かめた。「今までの努力が報われた。信じられない気持ち」と目尻を下げた。 3人きょうだいの末っ子。生まれながらに病弱でぜんそくに苦しみ、長い入院生活を送った。母のマリアさん(51)は「9歳まで文字通り病院で育った」と振り返る。バスケットボールや水泳に取り組んだが、続かなかった。9歳の時、マニラのショッピングモールでリンクを見つけ、スケートに興味を持った。始めてみると体質に合い、滑るうちに体力もついた。 【続きを読む】
スケートという魔法 初めてアイススケート場へ行った日を、樋口は今でも覚えている。それは1959年1月15日、小学校4年生で迎えた成人の日だった。 その日彼は家族と共に、水道橋駅のすぐそばにある後楽園アイスパレスに出かけた。白い楕円形のリンクの上にはたくさんの人がいて、冷たい空気の中を軽快な洋楽が流れていた。少し緊張したが、なんだか幸せな気分だった。 受付でずっしりと重いシューズを貸してもらうと、紐の結び方すらよくわからないその奇妙な革製の靴に、樋口は小さな両足を差し入れた。 手すりにつかまり、おそるおそる白い氷の上に乗る。足首と膝ががくがくと揺れる。樋口は勇気を出して手すりから手を離し、一歩足を前に出そうとした。どすん。一歩目で早くも転んだ。なんとか立ち上がって、また一歩足を前に出そうとした。どすん。また転んだ。 何度も何度も転ぶうちに、ほんの数メートルに過ぎないが、ときどき樋口の細く華奢
ローリー・ニコルさんはフィギュアスケート界でその名を知らぬ人はいない振付師だ。1996年、当時15歳のミシェル・クワン(米国)に世界女王のタイトルをもたらして名をはせ、これまで数々の名作を作ってきた。来年のソチ五輪では浅田真央(中京大)、高橋大輔、織田信成(ともに関大大学院)の振り付けを担当するなど日本との関係も深い。選手に寄せる思いや振付師の役割などについて聞いた。■ノクターン、浅田にぴったり
【鈴木明子のHAPPY_SKATING】ソチ五輪の会場となるアイスバーグ・スケーティング・パレスで開かれたグランプリファイナルのフリーで演技する鈴木明子選手。3位に入り、この後のエキシビションの練習でソチに挑戦する決意を固めた=2012年12月8日、ロシア・ソチ(大里直也撮影) 今年から「ソチ五輪を目指している」と枕詞(まくらことば)がつく鈴木明子になりました。年末のフィギュアスケートの全日本選手権後の会見で、五輪シーズンに臨むことを正式に発表しました。 「ソチ五輪に出たい」と、気持ちが完全に固まったのは、選手権の約2週間前にソチの五輪会場で行われたグランプリ(GP)ファイナルのエキシビションの練習のときでした。その前に行われた大会一夜明け取材のときには、まだ決めていなかったのですが、会場のリンクでエキシビションのために滑っていたとき、「やっぱり自分はスケートが好きだな」という思いを改めて
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