タルムード翻訳中。少々時間かかりそう……まあ多分少なくとも数年くらいは必要かなと(笑)解説書より本体を丸ごと読むんだよと思っていたものの、解説書をかじる方が賢明かもしれません。 300円くらいの安いやつ読書してみては。読書のすすめ。
![菜根譚128、心の適度な持ちよう(郭嘉の説く「兵は神速を貴ぶ」について)](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/39204329ca2bf0c15cf44cbdd179600403342956/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fkikikikikinta3.up.seesaa.net%2Fimage%2Fseesaa_profile_icon-8c335.jpg)
・面白い表現だなと思いました。この世の真の姿は石と水くらいしかないと。栄養がたまたまあったり気温が適度だったりするから草木は生い茂ることができているわけですが、あれは偽物だと。たまたま栄養があるからああして咲き誇っていることもできるのですが、その生自体が偽物である。ある意味では不易流行の極致とは、こうした表面上で全く誤魔化されない姿なのかもしれません。 ・その先に人を見れば、人が多いというのも一種のまやかしであると。それどころか人の存在そのものがまやかしの方に位置するものだとすら言えるかもしれない。まあそんなこと言ったって実際には人はいるわけですが、いると言ったって所詮大したことはないとこの節は言おうとしているものでしょう。それこそ前節の楽毅のように、小国燕でものすごくがんばって斉を負かしはしましたが、いなくなってみると斉は勢力を盛り返し、版図は元通りとなり、結果的には斉の勢力を大きく削ぎ
タルムード翻訳中。少々時間かかりそう……まあ多分少なくとも数年くらいは必要かなと(笑)解説書より本体を丸ごと読むんだよと思っていたものの、解説書をかじる方が賢明かもしれません。 300円くらいの安いやつ読書してみては。読書のすすめ。 急に英語を学ばなくてはという切迫感を感じた、というのはアメリカ行ってエンジニアやってる人の動画をユーチューブで毎日見てるからなんだろう。くっそうらやましい、男なら己の腕と才覚、そして実力一本で生きてみたいよなあ、となんとなく漠然と思っていたが、とうとうキレたって感じだろうか。思い立ったからと行ってすぐできるわけではないが、多分一生にそう何回も思い立つこともないと思うので貴重なことだと思う。 間違いなく言えることは、毎日見てる動画で人生の方向性なんてあっさり決定されるなってことで(笑) 海外は何回か行ったことがある、とはいえイランだのインドだのってのも結局あくま
・「若い時の苦労は買ってでもせよ」という話になると思うんですが、この苦労というのもほどほどであれというのは思います。あまりにも苦労しすぎるとそもそも芽を出すことすらままならない事態になってしまう。かといってそもそも苦労しないというのでは経験が足らないということになってしまう。一概に言われるこの言葉もほどほどという基準を見定めてないと、肥しのやりすぎで芽が出ても出ても地上に姿を出すことができず、とうとう力尽きる様に似ているように思います。肥しがなくては芽が出ないし、ありすぎても同様に芽は出ないわけです。 ・これを踏まえていえば、馬謖は不十分だったから総大将を任されて街亭の戦いで大敗したんだね、諸葛亮は十分だったから劉備の軍師として大活躍できたんだねということになりそうですが、そんな簡単な話でしょうか。馬謖はじゃあどうすればよかったのか。諸葛亮は言うほど最高の教育環境だったのか。荊州を呉に奪還
そういう佐官とか(要するに大佐とか少佐とかいうヤツですね)尉官(大尉とかですね)とかが船を成り立たせているのではないと。一番下で汚れ仕事とかでもきちんとやる、海士(一士二士とか士長という表現で呼ばれてました)が船を成り立たせているのであると。これを初めて聞いた時は驚きましたね。一番下でメシの用意とかやってるけどこれ意味あるんかなーとか思ってましたから、それが重要なんだってのを聞いたら。こういうことをしたいわけではないんだが、でもこういう仕事がきちんとあるからこそその上の仕事が成り立っていると。だから海士というのは一番下なんですが、けっこう丁寧に扱われてましたね。忙しさのあまり飯抜きになりそうなときでも「あーあの人はいつも一生懸命やってるし世話にもなってるからメシ用意しとこうか」となったりとか。そうならない、ということを考えるとこの差がいかに大きいかとかを当時考えたりしていました。そういう視
昨今の若いことが良い、という一方的な風潮は違和感を感じることも多いです。人は当然年を取る、それによる「老成」というものもあって然るべきなのになぜか若さに価値を大きく傾らせている。そして誰もがその価値観に違和感を感じることがない。価値観は人それぞれというのはそれはそうですし、それに対して口を挟みたいわけではないですが、その若さに偏るということが老成という価値観に真っ向から対立し、いっそ否定する権利があるかのような言い方になると話が違ってきます。どうも価値観は人それぞれだ、ということが同時にだからオレは別の価値観を否定する権利があるかのような話になってしまう。そしてそれに違和感がないということが人に否定権をもたらしているかのような印象を与えている。かといって同様に否定する……老成という別の価値観によって若さに対して否定をすると、全否定されたかのような反発がある。つまり価値観というのが攻撃する要
孟嘗君の話を漢文の授業とかでは単発で取り上げることが多いわけだけど、史記を見ていて思うのは、これはあくまで史記という一連の流れの中で孟嘗君(もうしょうくん)というのを取り上げている。ここに意味があるなと。 楽毅(がっき)や郭隗(かくかい)なども同時代の人なわけで、話は郭隗から始まることになるのだが、燕の昭王が斉への恨みを晴らそうと思っていた。何かいい方法はありませんかと昭王は尋ねる。そうすると郭隗は「隗より始めよ」という。賢人が欲しい、勇者が欲しいと思うのであればまずはこの自分を厚遇せよと。そうすれば郭隗以上だと思うヤツはこぞってやってくることでしょうと。この郭隗の目論見は見事に当たり、各地から様々な武将が燕に集まることになります。 ・これというのは、昭王の人材が欲しいという願いであり願望が最初にあり、その答えというものは様々にあるというわけでしょうが、郭隗はそのたくさんの可能性に対して最
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