黒岩涙香訳《噫無情》を読む楽しさの半分は、日本語のおもしろさにある。 虚呂々々、動揺々々と書いて、きょろきょろ、どやどやと読ませる。漢字に全部ルビが振ってあるから、さまざまの芸当ができる。例えば、情死のふりがなは、しんぢう(心中)。登場人物は日本名である。刑事ジャヴェールは蛇兵太(じやびやうた)、悪党テナルディエは手鳴田(てなるだ)。コゼットは小雪でマリユスは守安(もりやす)。エポニーヌが疣子(いぼこ)でアゼルマが痣子(あざこ)、シャンマチウはなぜか馬十郎(うまじふらう)。人物を日本式に替えただけではない。後篇の市街戦の場面で、バリケードに最後まで残るのは原作では三十七人の共和派の青年だが、涙香はこれを一揆で討ち死にを覚悟した四十七人としている。百姓一揆や赤穂浪士のイメージと重ね合わせているのだ。 涙香の《噫無情》は、江戸期からの古典や漢籍、芝居や話芸の言葉、それに開化後に導入された西洋の