大正初め、[要出典][3]日本鉄道の基本計画は富岡小良ケ浜から熊町(大熊町熊)を通って大野へ接続する路線が計画された[4]。また、当時川内村から産出される木材を輸送するために、富岡駅まで運ぶ必要があった。このため、上岡村(現・富岡町夜ノ森)周辺に住む但野芳蔵[5][6]を中心とした有志一同により、1907年(明治40年)頃からおおよそ2年に渡り、駅設置の請願がなされた[7]。但野は大正六年七月十五日から有志数人を連れて度々、東京鉄道管理局水戸運輸局[8]や東京の鉄道省へ請願に赴いている。但野、単独でも五十五回、東京へ赴いている[9]。合わせて、当地の憲政会代議士であった半谷清壽の助力もあり、駅敷地の寄付などの五条件を満たすことにより、当地への駅設置が許可された[7]。大正七年十月、許可が下りるまで実に一年三ヶ月の年月を経た。 駅の設置で一番の問題となったのが工費負担と蒸気機関車への水の供給